おわりに
日本人のメンタリティの深層を知り、その問題を掘り起こしたつもりではある。
この論考を書き終えて、僕は日本の未来をよくできただろうか、という問いが残る。正直に言えば、わからない。
ただ一つ言えることがある。書くことで、自分自身の理解が深まった。
日本という国は不思議な国である。
英雄を求めながら、英雄を淘汰する。カリスマを熱望しながら、カリスマが出ると空気で封じ込める。改革を願いながら、改革者を孤立させる。
これは矛盾ではない。日本OSの設計上の必然である。
この国では、物語の連続性が至上命題である。皇室の万世一系が示すように、断絶しないことそのものに価値がある。だから自己完結する英雄は淘汰される。英雄が物語を終わらせようとするとき、日本という物語はその英雄を静かに排除する。
改革者が英雄にならない日本では、改革者は物語の一章を担う者に過ぎない。その章が終われば次の章へ渡す。それが日本OSにおける改革者の正しい役割である。
しかし調停者もまた、完全ではない。
際限を忘れたとき、調停者は自己満足を求め始める。信用の蓄積が権力の独占に変わり、網の目が閉じ、着地点が私物化される。そのとき日本という物語は、眠っていた改革者を呼び覚ます。
改革者と調停者。ともに日本という物語の奏者である。しかしともに、間違える。
改革者は着地点を見誤ることがある。調停者は腐敗することがある。改革者が破壊しすぎることがある。調停者が守りすぎることがある。
そしてその間違いのコストを最終的に負うのは、一般の国民である。
僕はこの論考において、彼らへの完璧な提言ができたとは思っていない。
歴史を読み、思想を辿り、構造を分析した。改革者の条件を示し、調停者の腐敗を解剖し、腐敗せざる調停者のあり方を論じた。日本OSの深層から現代の財務省問題まで、一本の線で繋いだつもりではある。
しかし論考は現実ではない。言葉は行動ではない。分析は変革ではない。
それでも書いた。
なぜなら、言葉が人の内側に入るとき、それは静かに現実を変え始めるからである。アファメーションを書いたのはそのためだ。改革者の条件を示したのはそのためだ。腐敗せざる調停者の問いを整理したのはそのためだ。
誰かがこの論考を読んで、自分の役割を少し深く考えるなら。改革者であろうとしている誰かが、着地点の設計を見直すなら。調停者の位置にいる誰かが、自分の中の腐敗の種に気づくなら。
それだけで、この論考は意味を持つ。
日本という物語は続く。
改革者と調停者が間違いながら、それでも次の世代へ渡しながら、この列島の上で繰り返されてきた物語は、これからも続く。
完璧な改革者はいない。腐敗しない調停者も稀である。しかしその不完全な奏者たちによって、日本という物語は一度も断絶せずに今日まで来た。
わずかながらでも未来がよくなれば、とは思っている。
それがこの論考を書いた、唯一にして十分な理由である。
本論考は一人の日本人が、自国の深層を理解しようとした試みの記録である。
正しいところも、間違っているところもあるだろう。
それもまた、日本という物語の一部である。
ここに至って、今更ながら気づいたことがある。
日本の改革者の物語は流行りはするが残らない。自己完結した英雄の名は語り継がれても、その物語は閉じている。
しかし日本という物語に包摂された者の仕事は、閉じない。
だから僕は最後にこう自己定義する。
「私の人生は、日本の正統性に包摂される」
それで十分である。




