第5話 貸し出し
寒い街の中を歩き続け、俺たちはようやく駅前のビルにたどり着いた。そこには市内でも有数の規模を誇る大型書店が入っており、参考書から漫画まで多種多様な書籍が取り扱われている。
「それで、潤くんは何買うんだっけ?」
「電磁気の本。物理の進度が遅いから予習しようと思って」
「へー、大変そうっ」
微塵も大変そうとは思っていない声色で、斜め後ろにいる陽葵が答えた。俺たちは今、参考書コーナーに向かって歩いている。単語帳も置いてあるはずだから、ちょうどいい。
通路を左に曲がると、「過去問題集」「対策本」といったタイトルが並ぶ本棚が目に入った。制服を着た高校生たちが立ち読みをしており、思わずじっと見てしまう。
「どしたの?」
「……知り合いがいないか気になったんだよ。見られたら面倒だから」
「何の話?」
「いや、気にするな」
こんな金髪ギャルの一年生と一緒にいるところをクラスメイトにでも見られたら、後々尋問を受けることは間違いないからな。高校生ってのはしょうもない噂を気にしやがる。
「俺はもう何買うか決めてるから。陽葵も早く選んでこいよ」
「えー、だったら選ぶの手伝ってほしいかも!」
「単語帳だろ? 有名なの適当に買っとけ」
「ひどっ! だってどれが有名とか知らないもん! た……タンジェント1900?」
「数学と混じってるじゃねえか」
「だから知らないんだって! 潤くんのいじわる~~!」
陽葵はぷんすこぷんすこと頬を膨らませて、駄々をこねていた。面倒な奴だな、本当に。だけど、高校に入ってまだ間もない新入生と考えれば……あまり参考書の類に詳しくないのも無理はないか。
「分かったよ。何個か教えてやるから自分で選べ」
「ほんとっ? マジ感謝! 神! 仏! 稲尾様!」
「お前いくつなの?」
単語帳は知らないのになんで稲尾和久の名前は知ってるんだよ、脳のリソースの振り分けを間違ってるんじゃねえのか。そんなことを思いながら、俺は陽葵と共に単語帳の棚へと向かったのだった。
***
たくさんの英単語帳が並んでいる棚から陽葵がとある一冊を取り出し、俺に見せてきた。
「これってどーなの? クラスの子が使ってるの見た!」
「悪くはないと思うけど……陽葵には早いよ。お前、そこまで英語得意じゃなさそうだし」
「ひど! これでも帰国子女だし!」
「いつの話?」
「えーと……赤ちゃんの頃!」
「オギャーとバブーは英語に入んねえぞ」
「ハローくらいは話せたもん!」
とはいえ、帰国子女ってのは普通に意外だな。親の仕事の関係だろうか? 外資系企業か、あるいはアカデミアか……まさか医者? いや、そんなわけないか。などと適当に考えをまとめつつ、陽葵とは別の単語帳を手に取る。
「こっちのはどうだ?」
「それって……」
「結構オーソドックスなタイプだけど。俺はずっとこれを使ってる」
「ふーん……」
説明しながら単語帳を手渡してやると、陽葵はパラパラとめくって中を確かめていた。参考書の類を買うとき、奇抜なものを選んでもあまり意味がないと思う。ある程度の評価がされているものを使った方が無難だし、偏差値を伸ばすにはそれで――
「ごめん、やっぱりこっち買う!」
「えっ?」
陽葵は持っていた単語帳を棚に戻し、さっき見ていたレベルの高い方のを手に取った。コイツ、ちゃんと話聞いてたのか?
「おい、だからそれは……」
「分かってるってば! でもこっち買う!」
「なんで?」
そう問いかけると、陽葵は持っていた単語帳を掲げてニヤっと笑みを浮かべた。そして何か勝ち誇るかのような表情で――一言。
「あたし、潤くんよりも勉強出来るようになるからっ!」
「百年早いわ」
「あだっ!!」
あまりに生意気すぎて、反射的に(軽く)頭をチョップしてしまった。陽葵はわざとらしく痛がり、むーっと頬を膨らませている。
「ちょっ、叩くことないじゃん!」
「決まったならもういいだろ。さっさと行くぞ」
「置いてかないでってばー!!」
さっき電磁気の本もピックアップしたし、あとはレジに行って会計してもらうだけだな。さっさと帰って――
「あっ」
ふと思い立ち、立ち止まる。そうだ、せっかく本屋に来たんだったら。
「どしたん?」
「ちょっと寄り道する。来るか?」
「えっ? じゃあー……行くっ!」
元気よく返事をくれた陽葵を引き連れ、歩き出したのだった。
***
店内を少し歩くと、目的地が近づいてくる。仕事終わりのサラリーマンやジャンパーを羽織った小学生など、参考書コーナーとはまた違った客層が棚の前を賑わせていた。
「ここ……漫画のコーナーだよ?」
「そう。なんか面白い新刊が出てないかと思って」
「潤くんってそういうの読むんだ! 意外かも」
「そうか?」
「家でもずーっと勉強してそうだもん! こう……啓蟄の功みたいな?」
「『蛍雪の功』な」
微妙に語彙力のある間違いだな……。それはともかく、漫画を読むのは嫌いじゃない。本屋に来たとき、こうやって漫画の棚を物色するのも珍しくない。
「おっ、この人新刊出したのか……」
青年漫画の棚から一冊の単行本を取り出し、表紙を見てみる。ロケットの前で凛々しい顔をする主人公……か。前は日常ものを書いていた人だけど、今回は本格的なSFにチャレンジしているみたいだな。宇宙ものは最近だと珍し――
「うわっ、めっちゃ絵うまい!」
その時、俺の背後から覗き込んでいた陽葵が驚いたような声をあげた。表紙の絵が気に入ったらしい。たしかに格好いいイラストだけど、そんなに感動するほどか?
「なに、気になる?」
「うん、見せて!!」
「はいよ」
「わあ、すごっ……!」
単行本を渡してやると、陽葵はキラキラと目を輝かせていた。背表紙を見たり、裏返してみたり、隅から隅まで食い入るように見つめており、あまりの真剣さにこちらが驚いてしまう。
「そ、そんなに気に入ったか?」
「うん! めっちゃ面白そうだし! マジで買って帰りたい!!」
「買えばいいんじゃねえの」
「うん、そーなんだけど……」
しかし陽葵は珍しく表情を曇らせ、単行本を俺に返してきた。買う金がないのか? いや、毎日毎日喫茶店に行っている奴が金欠なわけがないよな。
「いいのか、買わなくて?」
「うーん、たぶん怒られちゃう」
「怒られる?」
軽く問いかけたつもりが、陽葵が大きく目を見開いた。そして堰を切ったように、次々と話し始める。
「あたしのママ、マジで厳しいの! 今どき漫画読んじゃ駄目とかあり得なくない!?」
「えっ、いつの時代?」
「漫画とか買って帰ると捨てられんの! マジで図書館の漫画しか読んだことないもん!」
「えぇ……」
陽葵は大きく息を吐いた。なぜそんなに厳しい母親が金髪ミニスカートを許しているのか、という疑問はあるが……漫画を読んだことがないのは本当らしいな。さっき表紙を見ただけで感動していたのも、普段あまり読みなれていないからと考えれば納得がいく。
「じゃあ、本当に買わないのか?」
「うん。たまには読みたいんだけどさー……」
半分いじけたように俯く陽葵。こうしてみると、案外子どもっぽいところもあるんだな。いくら容姿が大人びていても、やっぱり中身はまだ高校一年生というわけか。……仕方ないな。
「おい」
「えっ?」
単行本を突きつけてやると、陽葵が戸惑いの声を漏らした。コイツが買って帰ればきっと母親に破り捨てられてしまうのだろう。だったら――俺が買えばいいんだ。
「これ、読みたいんだろ?」
「うん、でも……」
「俺が買うから、お前に貸してやる」
「どういうこと?」
意味が分からないのか、陽葵は首をかしげて俺のことを見ていた。別に大したことじゃない。
「家で何か言われたら『友達から借りた漫画』って言えばいいだろ。お前の母親だって、他人の物だったら簡単に捨てないんじゃねえのか」
「……」
「なんだよ?」
陽葵はきょとんとしたまま、動かない。どうしたのかと不思議に思っていると、次の瞬間――ふわっと良い匂いが漂い、身体全体に柔らかい感触があった。
「!?」
「潤くんほんっっっとうにありがとう!! 神!!」
ちょっ、抱き着くんじゃねえ! 周りみんな見てるじゃねえか! そこのスーツ着たサラリーマンのおっさんが気まずそうにしてるからやめろ!
「おまっ、何すんだよ!?」
「いーじゃん! やっぱ潤くん天才!」
「ちょっ、お前っ……!」
陽葵はがっちりと俺の背後に手を回しており、まったく離れる素振りを見せてくれない。自分の胸板には柔らかな膨らみが当たっており、こっちが恥ずかしくなってしまう。
「そしてねっ、ちょっと安心した!」
「な、何がだよ!?」
「えー、だってねっ……」
さっきとは打って変わって、上機嫌な声を漏らす陽葵。そして、俺の耳元に顔を寄せて……一言。
「潤くん、あたしのこと『友達』って言ってくれたじゃん!」
そう言って陽葵は手を離し、ニッコリとほほ笑んだ。友達……友達ね。そんなつもりはなかったけど、コイツがそう言うなら……それでいいかもな。
どこかふわふわとした心地を覚えながら、陽葵とともに歩き出したのだった。




