第3話 名前を呼んで
今日も今日とて、喫茶店のテーブルで勉強している。向かいの椅子にはリュックサックを置き、机の上には力学のテキストとノートを広げていた。
「ふわあ……」
二時間も問題を解き続けていたから、流石に眠くなってきた。コーヒーでカフェインは摂取しているのだが、二杯だけでは足りなかったらしい。
ちらりと左腕の時計を見ると、間もなく十九時になるところ。用事もあるし、今日はそろそろ帰るかな……。
「みーっけ!」
「ん?」
顔を上げると、肩掛けカバンを携えた例の金髪ギャルが立っていた。カップを載せたトレーを両手で持ち、ニコッとほほ笑んでいる。
「なんだ、お前か……」
「『なんだ』ってひどくない!?」
「俺、もう帰るとこだから」
「えーっ、あたしのために取ってくれてたんじゃないの!?」
「?」
何かと思って首をかしげていると、ギャルがじっと俺のリュックサックを見つめている。もしかして……コイツのために席を押さえていたのだと思われているのか?
「なわけないだろ。単に置いてただけだし」
「え~、そんなあ」
「座るならリュックどかして座れよ」
「は~い」
テーブルの上にトレーを置いてから、ギャルは俺のリュックサックを除けて席に座った。
「ねー、今日も数学のこと聞いていい?」
「いや、本当に帰るとこだし。今日はお前に何も教えないからな」
「……」
ギャルは頬を膨らませ、なんだか不満そうな顔を見せている。そんなに聞きたいことがあったのか?
「なに?」
「昨日渡したタダ券、見たでしょ?」
「『返品・換金は出来ません』って書いてあったな」
「もともと印刷してある文章じゃん!? そこじゃないし!」
「じゃあ何だよ」
「だからっ――」
意図が掴めずにいると、ギャルが身を乗り出してずいっと顔を寄せてくる。香水か何かのフローラルな匂いに思わずドキッとしていると、矢継ぎ早に言葉を繰り出された。
「ちゃんと! 名前書いたっしょ!?」
「……へっ?」
「『お前』とか言わなくてもいーじゃん!」
ギャルはじいっと俺の目を見つめてくる。ちゃんと名乗ったのだから、名前を呼んでほしい……と言いたいのか。でも――
「やだ」
「なんでよ!?」
「勉強を教えるだけなんだから、名前なんか呼ぶ必要ないだろ」
「そっ……そーだけど! なんか距離あんじゃん!」
「今めちゃくちゃ近いけど」
「そーいうことじゃないしっ!」
どうやらユークリッド距離の話をしているわけではなかったらしいな。なんてことを考えているうちに、ギャルは姿勢を元に戻してふんと鼻を鳴らした。
勉強を教えるとは言ったけど、コイツと親しくすると決めたわけじゃない。別に呼び方なんてどうだっていいと思うんだけど。
「……」
「ん?」
いつの間にか、ギャルが黙り込んで机の上をじっと見ていた。何かと思ったが、どうやら俺のテキスト類が気になるらしい。
「なに?」
「おにーさんの名前、カッコいいじゃん!」
「名前?」
「これ! この……か、かみみやてらじゅん?」
「読めてねえじゃねえか」
ギャルは目をきらきらと輝かせている。テキストそのものじゃなくて、裏表紙に書かれた俺の名前を見ていたのか。
「神宮寺だよ。神宮寺潤だ」
「えー、やっぱマジでカッコいい! なんかこう……アレみたい!」
「あれ?」
「ホストの源氏名!」
「なんで『神宮寺』が読めないで『源氏名』が読めるんだよ」
別に、源氏名みたいと言われても嬉しくないんだが。国分町でシャンパンタワーを立てるような職業は……たぶん俺には向いてないと思う。もっとも、母親がつけてくれた名前を褒めてもらえたこと自体は嬉しく思う。
「ねー」
「なに?」
「おにーさんのこと、なんて呼べばいい?」
「は?」
ギャルはあざとく首をかしげて、俺の顔を見つめている。やっぱり愛嬌はあるな、コイツ。でも必要以上に馴れ馴れしくされても困るし、適当にあしらうことにするか。
「別に『おにーさん』でいいだろ。逆になんて呼ぶつもりなんだ」
「んー……」
頭を悩ませるギャルをよそにカップを手に取り、コーヒーを飲む。流石にぬるいな。これを飲み干したらさっさと店を――
「『じゅんじゅん』って呼ぼうかなっ!」
「ぶっ!?」
「ちょっ、だいじょーぶ!?」
「おまっ、お前のせいだからな!?」
よりによってそれはないだろ!? 会ってまだ三日目の奴に滋賀県の郷土料理みたいな名前で呼ばれたくないんだが!?
「それでっ、結局『じゅんじゅん』でいいの?」
「俺は鰻のすき焼きじゃねえっての!!」
「じゃあー……『じゅんさい』?」
「秋田に引っ越すな! 食い物から離れろ!!」
「おにーさん、いろんな料理知ってるねっ」
ギャルは妙に感心したような表情を浮かべつつ、わざとらしく自分のカップに口をつけていた。なんで女子高生って生き物は変なあだ名をつけたがるんだろうな……。
「とにかく、普通に呼んでくれよ」
「えー? じゃあー……『潤くん』とか」
「まあ……それならいいけど」
後輩から「くん」付けとは釈然としないが、変なあだ名で呼ばれるよりはよっぽどいいな。まんまとドア・イン・ザ・フェイスに引っ掛かっているような気もするが。
「それでっ?」
「ん?」
「潤くんはー……あたしのこと、なんて呼んでくれるのっ?」
ギャルは意味もなくマドラーでカップの中をかき混ぜながら、いたずらっぽい笑みを浮かべる。そういや、もともとはそっちの話だったな。
「さっきも言っただろ、名前なんか呼ぶ必要ないって」
「そうだなあー……結構『ひーちゃん』って呼ばれることが多いかも!」
「話聞けよ」
「えっ、結構よくない? 潤くんも『ひーちゃん』って呼んでよ!」
「あのなあ……」
ニコニコとほほ笑むギャルと対照的に、俺は半ば呆れていた。高三の男子が「ひーちゃん」などと言って金髪ギャルに数学を教えているなど、どう考えても不審極まりないシチュエーションだろう。
「俺が『ひーちゃん』なんて言ってたら変だろ」
「なんで?」
「なんでって……俺が『ちゃん』とか言っているような奴に見えるか?」
「意外性あっていーじゃん!」
「お前、ポジティブの化身だな」
「ちょっ、だから『お前』って言うのやめてってば!」
ギャルはぷんぷんと怒っていた。まあでも、たしかに向こうは名前で呼んでくれているわけだしな。俺だけ「お前」呼びするのも失礼な話か。
「岩泉」
「えっ?」
「お前の呼び名だよ。名字なら文句ないだろ」
「んー……やだ!」
「なんで」
「いーから! 他のにして!」
名字が駄目、となると……まさか「ひーちゃん」か? いやいや、流石にそれは勘弁したい。コイツのギャル友達ならともかく、勉強を教えるだけの上級生がそんな呼び方は出来ないな。となると――
「『陽葵』は?」
「えっ?」
「呼び捨てが一番楽だから。それでいいか?」
陽葵はきょとんとして俺の方を見ていた。しかしすぐさま表情を緩めて、明るい声で答えた。
「じゃあっ、それでお願い! よろしくね、潤くん!」
「ああ、よろしく」
やたらと上機嫌で、陽葵は再びカップの中身をかきまぜていた。そんなに「お前」呼ばわりが嫌だったんだろうか? ギャルの考えることは分からんな。
「じゃあ俺、本当に帰るから。またな」
「もうちょっといてもいーじゃん!」
「本屋に寄るんだよ。参考書買うから」
俺は椅子に掛けてあった上着を手に取って、静かに羽織った。帰り支度をしていると……急に陽葵がカップの中身をすごい勢いで飲み始めた。
「おま……陽葵も帰るの?」
「んーん、んんーん!」
「飲んでから話せよ」
「ぷはっ! えっと……あたしも単語帳欲しいのっ!」
「それで?」
「だからさ……」
陽葵は椅子から立ち上がり、大急ぎで荷物をまとめ始めた。それがひと段落すると、俺の方に向き直って……一言。
「潤くんのお買い物、ちょっと付き合わせてっ!」
白い歯を覗かせて、無邪気に笑う陽葵。こんな顔を見せられて、ついてくるなと断るなど……俺には出来なかったのだった。




