第1話 喫茶店のギャル
塾の自習室は嫌いだ。シャーペンをがりがり動かす音しか聞こえないし、そのくせこっちが音を立てると睨まれたりするからな。お互い様だってのに。
だから、塾の隙間時間には必ず近くの喫茶店に行く。かなり大きいチェーン店だから、勉強してようが仕事してようが店員も気にしない。一杯のコーヒーで問題集を三ページも進ませられるのは俺たち高校生には有難い。
今日の俺は二人用の小さいテーブル席に座り、カフェオレを片手に数学の問題を解き続けていた。この四月で高校三年生になったから、受験勉強に身を投じなければならないというわけだ。夕方だからなのか知らないが、席はサラリーマンやら何やらでかなり埋まっている。
「……ん」
向こうの方から歩いてくる女子高生、見覚えがあるな。ああ……さっき塾で見かけたんだ。うちの高校のブレザーを着ていたし、女子にしては背が高いから印象に残っていた。しかも金髪が外にカールしていて、耳にはピアスがついている。ギャルだな。
「……みじかっ」
さっきは気づかなかったけど、すげえスカートだな。ニーソックスを履いてるとはいえ、いろいろ見えないか心配になる。でも、こってこての恰好をしている割には妙に歩く姿が様になっているな。所作が洗練されているというか……こんなギャル、うちの高校にいたか?
俺の隣のテーブルを見て……何やってんだ、コイツ? 空いてるんだから座ればいいのに。混んでるんだから、早く座らないと取られるぞ。
「ねー」
「?」
「ねーってば!」
俺の顔を覗き込むように、ギャルが話しかけてくる。俺も制服だから、同じ高校の人間だってことは分かったんだろうが……ギャルってのは他人とのコミュニケーションを厭わないんだな。
「俺か?」
「うん、そー! ここの席って空いてるっ?」
「……見りゃ分かるだろ」
「ありがとー!」
誰がどう見たって空席なのに、意外と律儀な奴だな。それにしても、笑った顔……愛嬌があるな。というか、可愛い。鼻筋の通った綺麗な顔をしている。こんな奴が学校にいたら覚えていそうなもんだけど。
「~♪」
テーブルに座って、塾のテキストを広げて……随分とご機嫌だな。なになに、「場合の数と確率」って書いてあるな。ってことは高一か。なるほど、だから学校で見かけた記憶がないんだな。
「さて……」
新入生を観察するのはやめて、数学に戻るとするか。模試もあるし、少しでも進めておかないとだしな……。
俺は参考書のページをめくり、次の問題にとりかかったのだった。
***
「ふああ……」
三十分くらい経ったかな、流石に眠くなってきた。カフェオレも飲み干してしまったけど、もうちょっと勉強していきたいな。レジまで行って、追加で何かコーヒーでも――
「これ使って!!」
「……はっ?」
横のテーブルからコーヒーの無料券が差し出されてきた。……なんでだ?
「何?」
「これ使って!! コーヒー買いに行くっしょ!?」
「そうだけど。自分で使えよ、そんなの」
「いーから! 受け取って!!」
ギャルは不自然な笑顔を浮かべている。気安く話しかけてきて、しかもコーヒーのタダ券を押し付けてくるって……。本当に何がしたいんだ? 俺はお前の友達でも何でもないんだが。
「いらねえよ。金くらいある」
「おにーさん富豪!? 五百円分だよ!?」
「じゃあお前が使えよ」
「そっ……そーだけど! 使ってよ!」
「……?」
罠か? 後で金でも盗られるのか? コイツの彼氏でも出てきて殴られるのか? 目的が分からないから、恐ろしくて受け取れない。たぶん、小遣いは人より貰ってるしな。
「お前、何が目的なの?」
「べっ、別に何もない……けど?」
「……何かあるだろ」
「えっ、とお……」
ギャルが気まずそうに目をそらしたので、俺は横のテーブルに視線を向けてみる。……ノートが真っ白だな。三十分も経ったのに、まだ最初の問題も解けてないってことか?
「おっ、お願いっ! 一問だけでもいいから数学教えてくんない!?」
「ええ……」
「マジで分かんないの! おにーさん、さっきからずっとムズそうなのばっかり解いてるからさ~……」
両手合わせて拝み倒されても困るんだけどな……。要するに、コーヒー奢ってあげるから数学を教えて――って言いたかったのか。
「塾に戻って先生に聞いてこいよ」
「だって塾のせんせーって怖いじゃん!」
「高一でピアス開けてる奴の方がこえーよ」
「イヤリングだし! つかあたしの勝手っしょ!?」
「じゃあ教えないのも俺の勝手だろ。邪魔すんな」
「えー、いいじゃ~ん……」
せっかく可愛いんだからふくれっ面するなよ。というか、さっきからずっとタメ口じゃねえか。先輩だからって威張るつもりはねえけど、もうちょっと頼み方ってもんが――
「よーし、分かった!」
「は?」
……おいギャル、どうしてテキストと筆箱を持って席を立ったんだ。どうして俺の向かい側の席に座ろうとしているんだ。どうして――同じテーブルにノートを広げているんだ!?
「お前、勝手に何してんだ……?」
「別に? 席を移動するのもあたしの自由だしー!」
「……そうかよ。言っておくけど、教えないからな」
なんでギャルと向かい合って勉強しなくちゃならないんだ……。テーブルが狭くなるし、何よりこんなに可愛い子を前にしたら集中出来ない。わざわざ喫茶店に来てる意味がないじゃねえか。
「はあ……」
妙にテンションが高いギャルとは対照的に、俺はため息をつきつつ関数を微分する。なになに……グラフの概形を示せ、ってことは第二次導関数まで求めないといけないかな。分数関数だからもう一回微分するのが面倒くさい。
「五つの球が入ってて……その中から白球を二つ……?」
コイツも勉強に戻ったみたいだな。部活の後輩に勉強を教えることはあるけど、流石に初対面のギャルに数学の授業をするほどお人よしじゃない。自分の勉強だってあるしな。
「えっと……確率が……」
いちいち声に出すなよ、気になるだろうが。細かく問題文を読んだわけじゃないけど、たぶんコイツが解いている問いの答えは3/10だ。でもたしかに、確率は理解しにくい面もあるから解けなくても仕方な――
「答えは『500』っと……」
「そんなわけねえだろ!?!!?」
何をどう計算したら確率が1を超えて10を超えて100を超えるんだよ!? コイツどうやってうちの高校入ったんだ!?!? 仮にも県内一の進学校だぞ!!?
「どーしたの?」
「おまっ……本当にその答えで合ってると思ってるのか?」
「えっ? 違うの?」
「違うが!?」
「ふーん……」
間違いを指摘してるのに、なんでコイツはニヤニヤしてるんだ? なぜしたり顔で俺の方を見ている? なんで――
「あたしが気になるならさ、教えてよっ!」
「はっ?」
「分かんないとこだけ教えてくれたら、自分の席に戻るからさっ! お願いっ! この通りっ!」
「あのなあ……」
ギャルは再び両手を合わせて、必死に拝んでくる。目の前でハチャメチャな解き方をしていれば、俺が間違いを正したくて正したくて仕方ないのではないか――と考えたのだろうな。まんまとコイツの作戦に引っかかっている気がして、いまいち釈然としない。
「……分かったよ。どの問題か言え」
「えっ、本当? マジ感謝! あざす!」
「いいから早く」
「えっとー、まず一問目が……」
こうして、ギャルに数学を教える時間が始まったのだった……。
***
「自分で計算してみな」
「……20通り?」
「じゃあ、確率は?」
「えっと……」
カチカチとシャーペンの芯を出し、真剣に計算を進めるギャル。意外と真面目に話を聞いてくれるから、驚いた。
「ねえこれ、なんで順列じゃだめなの?」
「えっ? ああ……取り出した球の順番は気にしないから、ここで順列を使っても意味がないんだよ」
「ふーん……」
しかもコイツ、さっきから鋭い質問を飛ばしてくる。きちんと教えたらすぐに理解してくれるから、ありがたい。考えてみれば、入学早々喫茶店で勉強している時点でかなり真面目な奴なのかもしれないな。
「解けた! 3/10!」
「そうだな、多分合ってる」
「ありがと~~! マジ感謝! 命の恩人!」
「命までは助けてねえよ」
こんな問題を教えられたくらいでペコペコしなくていいのに、本当に律儀なギャルだな。というか、コイツに数学を教えていたせいですっかり遅くなった。仕方ねえ、流石に帰るとするか。結局自分の勉強は出来ずじまいだったな。
「あとの問題は分かるよな」
「うん! マジで分かりやすかった! あとは自分で解ける!」
「じゃ、俺は帰る」
テキスト類をまとめてリュックサックにしまい、席を立つ。外は寒そうだな。ちゃんと上着を羽織らないと――
「これっ! 受け取って!」
またギャルから無料券が差し出された。……って、二枚に増えてるじゃねえか。とことん律儀な奴だな。
「いらねえよ、別に」
「いやいやいや、ほんっっとうに助かったから! あたしの気が済まないから!」
「だからいいって」
「いーじゃんっ!!」
「ちょっ、おいっ!?」
ギャルが席を立って、無理やり抱き着くように無料券を胸ポケットにねじ込んできた。強引な真似をしやがって……っていうか、胸が当たってる! やめろ! 恥じらいを持て恥じらいを! こっちが恥ずかしいじゃねえか!
「えへへっ、たしかに渡したから!」
「あのなあ……」
「じゃあねっ、おにーさん!」
「お、おう……」
こんなニッコリ笑顔で手を振られたら、突き返そうにも突き返せない。仕方ねえ、受け取ってやるか。あーあ、変な奴に絡まれたもんだな……。
喫茶店を出て、地下鉄の駅に向かって歩きだす。やっぱり寒いな。春になっても夜はこの気温か、早く暖かくならねえかな。
そういや、無料券は有効期限があるんだっけか。一応見ておかないと使うのを忘れそうだな。……アイツが適当に突っ込んだもんだから、ポケットの中でくしゃくしゃになってやがる。
「ん……?」
無料券を眺めていたら、裏に何かが書いてあることに気がついた。なんだこれ、メモ書き? どれどれ、なんて書いてあるのか――
『こっちの券は次回の分! また数学教えてね~~~!』
……なるほどな。もう一枚を無理やりに渡しておいて、また俺に数学を教えさせようって魂胆だったわけか。あのギャル、意外と頭がキレていやがる。
「……やりやがったな」
ため息をつきつつ、地下鉄駅への階段を下り始めた俺であった。
***
自宅のマンションに帰りつき、玄関で靴を脱ぐ。……あれ、親父の革靴がある。ってことはもう帰って来てるのか、珍しいな。
「ただいまー」
「……遅かったな、何をしていたんだ」
居間に入ると、テーブルに向かって新聞を読んでいる親父の姿があった。相変わらず怖い顔してんなあ。もう夕飯を食べ終えたみたいで、目の前の食器が重ねられている。
「喫茶店で勉強してたんだよ。変な新入生に絡まれて大変だったんだ」
「新入生?」
「数学教えてくれって言われてさ。まいったよ」
「……」
親父は新聞を横に置き、鋭い視線を俺に向けてくる。ああ……あのことを言いたいのか。
「前にも言ったが、第二外科の北上の娘がお前と同じ高校に入ったんだ。新入生と関わるなど――」
「分かってるよ。部屋に荷物置いてくる」
リュックサックを抱えながら、自分の部屋に足を向ける。北上という名字を忘れたことはない。だから、俺は――
「そんな奴、俺だって願い下げだ」
捨て台詞を残して、居間をあとにした。




