第9話:弱者の兵法、強者の誤算
模擬戦の舞台となる要塞の中庭には、張り詰めた空気が漂っていた。
雪混じりの寒風が吹き荒れ、石畳の上を白い粒子が走っていく。
対峙するのは二つの集団。
一方は、要塞守備隊長ガルド率いる精鋭重装歩兵、五名。
全身を黒鉄の鎧で固め、巨大なハルバードや大盾を構えたその姿は、動く要塞そのものだ。レベルは平均45。彼らの発する魔力だけで、周囲の空間が歪んで見えるほどの威圧感がある。
対するは、クロト率いる「落ちこぼれ部隊」、五名。
装備は革の軽鎧と、訓練用の錆びた剣のみ。レベルは平均8。
彼らはガタガタと膝を震わせ、青ざめた顔で互いに身を寄せ合っていた。
「おい、新入り……やっぱり無理だ。俺たちじゃ殺される」
部隊の一人、小柄な少年兵ハンスが、泣きそうな声でクロトに訴えた。
彼はまだ十五歳。本来なら故郷で畑を耕しているべき年齢だ。
「相手はガルド将軍だぞ? 訓練ですら俺たちの骨を折るような人だ。こんなの、処刑と同じじゃないか」
「そうですよ! 指揮官殿、降伏しましょう! 今なら土下座すれば……」
他の兵士たちも口々に悲鳴を上げる。
だが、クロトは彼らの怯えを意に介さず、懐から数本の小瓶を取り出し、彼らに放り投げた。
「泣き言は終わったか? なら、仕事の時間だ」
「え……? これは?」
「武器庫の隅にあった『武器手入れ用の油』と、調理場の『小麦粉』だ」
兵士たちは呆然と小瓶を見つめる。
これから殺し合いが始まるというのに、渡されたのが剣でも盾でもなく、油と粉。
正気を疑うような視線がクロトに集まる。
「いいか、よく聞け。彼らは強い。まともに剣を交えれば、君たちは〇・五秒で肉塊になる」
クロトは淡々と事実を告げた。
しかし、その瞳には諦めの色はなく、冷徹な計算の光だけが宿っていた。
「だが、彼らには致命的な弱点がある。……『強すぎる』ことだ」
「強すぎるのが、弱点……?」
「そうだ。彼らは自分のステータスを過信している。だから、目の前の小石を警戒しない。……これから僕が指示する通りに動け。そうすれば、あの鉄の塊どもは、ただの案山子に成り下がる」
クロトは兵士たちの耳元で、短く、具体的な指示を囁いた。
それを聞いた兵士たちの顔色が、恐怖から驚愕へ、そして微かな希望へと変わっていく。
「……本気ですか?」
「やるか、死ぬかだ。選べ」
ハンスがゴクリと喉を鳴らし、覚悟を決めたように油の瓶を握りしめた。
その目には、追い詰められた鼠が猫を噛む時のような、必死の光が宿り始めていた。
◇
「始めッ!」
審判役の兵士が手を振り下ろすと同時に、轟音が響いた。
「粉砕してやるわァァッ! 進めェッ!」
ガルド将軍が咆哮し、地面を蹴った。
五人の重装歩兵が一斉に突進する。
ドム、ドム、ドムと重たい足音が中庭を揺らし、あたかも雪崩が押し寄せてくるような迫力だ。
対するクロトの部隊は――散った。
「ヒィィッ! 逃げろぉッ!」
ハンスたちが悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすように四方へ逃走する。
それは戦術的撤退というより、ただのパニックによる敗走に見えた。
「ガハハハ! 無様だな! 追い詰めろ! 一匹たりとも逃がすな!」
ガルドが嗜虐的な笑みを浮かべ、獲物を追う。
精鋭たちは重い鎧を着ているとは思えない速度で加速し、逃げる新兵たちとの距離を詰めていく。
「もらったァ!」
先頭の兵士が、最後尾を走るハンスの背中にハルバードを振り下ろそうとした、その瞬間。
「今だ! 撒け!」
クロトの鋭い声が響いた。
ハンスが振り返りもせずに、手に持っていた瓶を背後の地面に叩きつけた。
パリンッ。
瓶が砕け、粘度の高い油が石畳の上にぶちまけられる。
「ああん? そんな子供騙しが……うおッ!?」
突進の勢いに乗っていた兵士は、急には止まれない。
油に乗った足がツルリと滑る。
総重量百キロを超える重装備だ。一度バランスを崩せば、慣性の法則は彼らに牙を剥く。
ガシャァァァンッ!!
派手な金属音が響き、兵士が仰向けにひっくり返った。
受け身を取ることもできず、背中を強打し、肺の空気が抜けて悶絶する。
「な、なんだと!?」
「二番、三番! 小麦粉!」
クロトの指示は止まらない。
左右に展開していた新兵たちが、風上から小麦粉の袋を破り捨てた。
白い粉塵が突風に乗って舞い上がり、後続の兵士たちの視界を覆う。
「ぐっ、目が! 前が見えん!」
「なんだこの粉は!? ゲホッ、ゲホッ!」
視界を奪われ、呼吸を阻害された精鋭たちが足を止める。
彼らの兜は防御力こそ高いが、通気性は悪い。粉塵が入り込めば、窒息するような不快感が襲う。
「落ち着け! ただの目くらましだ! 足を止めるな、突っ切れ!」
ガルドが怒鳴り、粉塵の中を強引に突破しようとする。
だが、その焦りがクロトの狙いだった。
「四番、五番! 『紐』だ!」
粉塵の煙幕から飛び出したのは、二人の新兵。
彼らは手に持っていたロープを、低く、ピンと張った状態で地面スレスレに構えていた。
視界を奪われ、足元の注意がおろそかになっているガルドたちの直前で。
「ぬぉッ!?」
ガルドの足がロープに引っかかる。
レベル65の筋力があれば、ロープなど引きちぎれたかもしれない。
だが、今の彼は全力疾走中で、しかも視界不良。
さらに、クロトが見抜いていた「左膝の古傷」が、無意識のうちに踏ん張りを甘くさせていた。
ズシンッ!
要塞守備隊長、ガルド・ヴォルクス。
その巨体が、無様に中庭の真ん中で転倒した。
地響きが鳴り、積もっていた雪が舞い上がる。
静寂。
城壁の上で見物していた兵士たちが、信じられないものを見る目で目を見開いている。
あの最強の将軍が、攻撃を一発も受けることなく、地面に這いつくばっているのだ。
「き、貴様らァァァッ!! 卑怯だぞッ!!」
ガルドが顔を上げ、血走った目で吠えた。
だが、その声には先ほどまでの威厳はなく、ただの負け犬の遠吠えが混じっていた。
「卑怯?」
クロトが、倒れたガルドの目の前にゆっくりと歩み寄る。
手には何も持っていない。
ただ、見下ろす視線だけが、研ぎ澄まされた刃のように冷たかった。
「戦場に卑怯もクソもあるか。あるのは『生』か『死』か、それだけだ」
「ぐ、ぅぅ……ッ! 俺はまだ負けておらん! こんな罠、力尽くで……ッ!」
ガルドが起き上がろうとする。
だが、クロトはその鼻先に、ショートソードの切っ先を突きつけた。
「動くな。……君の部下たちは、すでに詰んでいるぞ」
ガルドが視線を巡らせる。
そこには、信じがたい光景があった。
転倒して起き上がれない重装歩兵たちの関節部分――鎧の隙間に、ハンスたちがダガーを突きつけ、馬乗りになっているのだ。
重装備の弱点。一度転べば、亀のように起き上がるのに時間がかかる。その隙を、身軽な「落ちこぼれ」たちは見逃さなかった。
「首の隙間、脇の下、膝の裏。……いくらSランクの鎧でも、関節までは守れない。君たちが『雑魚』と呼んで侮った彼らは、今まさに君たちの命脈を握っている」
クロトの声が、要塞中に響き渡る。
「レベル差60? 関係ないな。地面に転がれば、将軍も新兵も等しくただの肉袋だ」
ガルドの顔から血の気が引いていく。
屈辱。怒り。そして、底知れぬ恐怖。
目の前のこのレベル5の男は、最初からこの結末が見えていたのだ。
ガルドたちの慢心、装備の特性、風向き、そして古傷に至るまで、全てを計算し、盤面を支配していた。
「……ま、参った」
ガルドが呻くように言った。
それは、ガルガディア最強の武人が、知略の前に膝を屈した瞬間だった。
「勝者、クロト軍事顧問!」
審判の声が響く。
一瞬の沈黙の後、城壁の上から、そして中庭の兵士たちから、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。
それはクロトへの称賛であり、同時に、長年ガルドの暴力的な指導に耐えてきた兵士たちの、溜飲が下がった音でもあった。
「やった……勝った……俺たちが、勝ったぞぉぉぉッ!」
ハンスが泣き叫びながら拳を突き上げる。
落ちこぼれ部隊の兵士たちが、互いに抱き合い、涙を流している。
彼らは知ったのだ。自分たちは無能ではない。使い手次第で、最強の精鋭すら喰らえる牙になり得るのだと。
バルコニーからその様子を見ていたセレスティアが、満足げにワイングラスを揺らした。
「ふふっ、予想以上だ。まさか一兵も損なわず完封するとはな」
彼女はクロトの背中を見つめる。
その瞳には、所有欲にも似た熱っぽい光が宿っていた。
「私の目に狂いはなかった。……クロト、貴様こそが、この国を最強へと導く鍵だ」
歓声の中、クロトは静かに剣を納めた。
勝利の余韻に浸ることはない。
これはまだ、挨拶代わりの小手調べに過ぎないのだから。




