第8話:鉄血の国と、歓迎されざる軍師
国境を越えた瞬間、空気の味が変わった。
王都アルカディアの風が、花とスパイスの甘い香りを孕んでいたのに対し、この国の風は冷たく、そして鉄の味がした。
軍事大国ガルガディア。
大陸北部に位置し、万年雪を戴く山脈と、荒涼とした荒野に囲まれた、武と鉄の国。
石畳を叩く馬車の車輪の音も、どこか重々しく響く。
クロトは窓のカーテンを少しだけ開け、流れる景色を見つめていた。
灰色の空。枯れた大地。そして、等間隔に配置された監視塔の鋭いシルエット。
「退屈か? 殺風景な国だろう」
向かいの座席で書類に目を通していたセレスティアが、顔を上げずに言った。
彼女はすでにドレスを脱ぎ、機能的な軍服に着替えている。
胸元には大公家の紋章である「絡みつく茨と剣」の銀細工が輝き、その姿は令嬢というより、一軍の将としての威厳を放っていた。
「いえ。無駄がなくて美しい国です。配置されている警備兵の立ち方を見ればわかります。全員が重心を低く保ち、いつ襲撃があっても即座に抜剣できる体勢だ。王国の兵士とは練度が違う」
クロトの感想に、セレスティアは満足げに口角を上げた。
「ふん、よく見ている。我が国は常に魔物と、そして南の軟弱な王国との緊張状態にあるからな。弱者は生き残れん。……そう、貴様のような低レベル者は特にな」
彼女は書類を置き、試すような視線をクロトに投げかけた。
「覚悟はいいか? 我が軍は完全な実力主義だ。レベルと武功こそが正義。貴様がいかに私の『目』として優秀でも、部下たちはレベル5の荷物持ちになど敬礼しないぞ」
「承知の上です。尊敬されるために来たわけじゃありません。仕事をしに来たんです」
「いい答えだ。だが、言葉より結果で示してもらおうか」
馬車が速度を落とす。
前方に、巨大な影が立ちはだかった。
ガルガディアの南の玄関口、国境要塞『狼の牙』。
黒い玄武岩を切り出して組まれた城壁は、高さ三十メートルを超え、その頂には無数のバリスタ(巨大弩砲)が南を睨んでいる。
重厚な鉄門が、地響きのような音を立てて開かれる。
馬車が中庭へと滑り込むと、そこには整列した数百の兵士たちが待ち構えていた。
一糸乱れぬ直立不動。
雪混じりの寒風が吹く中、彼らは微動だにせず、ただ主の帰還を待っている。
馬車の扉が開かれた。
冷気が車内に雪崩れ込んでくる。
「降りるぞ、クロト。歓迎の時間だ」
セレスティアが先に降り立つ。
瞬間、数百の兵士が一斉に踵を鳴らし、拳を胸に当てた。
「殿下! ご帰還、心よりお待ちしておりましたッ!」
腹の底から絞り出されたような轟声が、中庭の空気を震わせる。
その最前列、ひときわ屈強な体躯を持つ男が歩み出た。
身長は二メートル近いだろうか。
全身を分厚い漆黒の鎧で固め、背中には大岩をも砕けそうなグレートアクスを背負っている。
顔の左半分には古傷が走り、隻眼の瞳が鋭く光っていた。
要塞守備隊長、ガルド・ヴォルクス将軍。
レベル65。
この国の武を象徴するかのような、歴戦の猛者だ。
「ガルド、留守を頼んだな。変わりはないか」
「はッ! 南からのネズミ一匹通しておりません! ……ところで殿下」
ガルドの隻眼が、セレスティアの背後に立つクロトを捉えた。
その視線には、明確な敵意と侮蔑が込められていた。
「その後ろのヒョロリとした男は、何者でありますか? 王国の密偵……には見えませぬな。あまりに貧弱すぎる」
「言葉を慎め、ガルド。彼はクロト。私の客人であり、本日より私の軍事顧問として迎えた男だ」
「軍事……顧問?」
ガルドの太い眉が跳ね上がった。
彼だけではない。整列していた兵士たちの間にも、動揺のさざ波が広がった。
無理もない。
ガルガディアにおいて、軍師や顧問といった立場は、知力だけでなく、兵を納得させるだけの「武」を持つ者が就くのが常識だからだ。
ガルドは鼻を鳴らし、クロトに近づいた。
見上げるような巨体。
吐く息が白く濁り、威圧感だけで常人なら失禁しそうなプレッシャーを放っている。
「おい、小僧。名は?」
「クロトだ」
「レベルは?」
「5だ」
正直に答えた瞬間、ガルドは吹き出した。
それは、堪えきれない嘲笑だった。
「ブッ、ガハハハハハ! レベル5だと!? おい聞いたかお前ら! そこの新兵ですらレベル15はあるぞ! 赤ん坊が戦場に迷い込んだか!」
中庭に爆笑が渦巻く。
あからさまな侮辱。
だが、クロトは表情一つ変えなかった。
ただ、冷静にガルドの立ち姿、鎧の損耗具合、そして兵士たちの配置を観察していた。
「殿下、冗談が過ぎますぞ。このような雑魚を顧問になど、我が軍の恥になります。愛玩動物として飼うなら、自室のみになさいませ」
ガルドはセレスティアに向き直り、進言した。
セレスティアは無表情のまま、クロトを横目で見た。
助け舟を出す気はないらしい。
これは「テスト」だ。
この程度の逆風を跳ね返せぬなら、私の横に立つ資格はない。そう言っているのだ。
クロトは小さく息を吐き、一歩前に出た。
「将軍。一つ訂正していいか」
「ああん? なんだ、ママのミルクが欲しいのか?」
「雑魚というのは、レベルの数字だけで強さを測り、足元の危機にも気づかない間抜けのことを言うんだ」
中庭の空気が凍りついた。
爆笑がピタリと止む。
ガルドの顔から笑みが消え、どす黒い怒気が膨れ上がった。
「……小僧。今、なんと言った?」
「聞こえなかったか? 間抜けと言ったんだ。……例えば、君のその右足」
クロトは、ガルドの足元を指差した。
「重心が左に寄りすぎている。左膝に古傷があるのを庇っているんだろうが、その立ち方だと、右からの奇襲に対応できない。レベル65の肉体を持ってしても、初動がコンマ二秒遅れる。戦場では致命的だ」
「なッ……!?」
ガルドが息を呑む。
左膝の古傷は、誰にも話していない秘密だった。
それを、ただ立っている姿勢を見ただけで見抜かれたのだ。
「それだけじゃない。そこの城壁の上にいる弓兵たち。配置が等間隔すぎる。あれでは死角が規則的に生まれる。敵に『ここを通ってください』と言っているようなものだ。……これで『ネズミ一匹通していない』とは、随分と運が良かったんだな」
淡々と、しかし的確に急所を突く言葉のナイフ。
ガルドの顔が、怒りで真っ赤に染まった。
プライドを傷つけられた猛獣が、理性を失う寸前の顔だ。
「貴様ァァァッ!! 戦場を知らぬ口先だけの小僧がァッ! 俺を愚弄するかッ!」
ガルドが背中のグレートアクスに手をかけた。
殺気。
本気の殺意がクロトに向けられる。
レベル5対レベル65。
まともにやり合えば、クロトは肉片すら残らない。
だが、クロトは動じない。
むしろ、待っていたと言わんばかりに薄く笑った。
「図星を突かれて暴力か。わかりやすい男だ」
「黙れ! その減らず口、俺の斧で粉砕してやる! 殿下、許可を! この無礼者を教育してやります!」
ガルドが吠える。
セレスティアは、面白そうに目を細め、ゆっくりと頷いた。
「いいだろう。だが、ただの私刑ではつまらん。……模擬戦を行え」
「模擬戦、でありますか?」
「そうだ。クロト、貴様が『軍師』を名乗るなら、個人の武力ではなく、指揮能力で勝ってみせろ」
セレスティアは中庭を見渡した。
「ガルドは手勢の中から精鋭五名を選べ。対するクロトは……そうだな」
彼女の視線が、中庭の隅で掃除をしていた、装備もまばらな新兵たちの集団に止まった。
「あの『落ちこぼれ部隊』五名を指揮しろ」
どよめきが起きた。
落ちこぼれ部隊。それは、訓練についていけず、実戦配備から外された雑用係の兵士たちだ。レベルは平均10以下。装備はボロボロ。士気も最低。
対するガルドの精鋭は、レベル40台の重装歩兵たちだ。
戦力差は百倍以上。
子供と大人の喧嘩ですらない。
「殿下、それはあまりに……いや、こやつの処刑にはおあつらえ向きですな」
ガルドが獰猛に笑う。
絶対的な勝者の余裕。
「クロト。条件は?」
「構いません。ただし」
クロトはガルドを見据えた。
「僕が勝ったら、その将軍の座、僕の部下に譲ってもらいますよ」
「ハッ! 吠えるな! 貴様が勝てたら、俺の首でも何でもくれてやるわ!」
契約成立。
クロトは踵を返し、震えている落ちこぼれ部隊の方へと歩き出した。
彼らの顔には絶望しか浮かんでいない。
「なんで俺たちが」「死ぬに決まってる」「貧乏くじだ」
そんな心の声が聞こえてくるようだ。
(……良い顔だ)
クロトは内心で笑った。
勇者パーティのような、根拠のない自信に満ちた顔より、自分の弱さを知っている怯えた顔の方が、遥かに扱いやすい。
弱者は、生き残るためなら何でも言うことを聞くからだ。
「集まれ、クズども」
クロトは、彼らの前に立ち、静かに告げた。
その声は冷徹だが、不思議と彼らの芯を叩く力強さがあった。
「これから君たちは、あの傲慢なエリートたちを狩る狼になる。……死にたくなければ、僕の言葉を神の啓示だと思って聞け」
鉄血の国での初陣。
それは、常識外れのジャイアント・キリング(番狂わせ)の幕開けだった。




