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第7話:栄光の値段、現実の食費

 王都アルカディア、貴族街の一角にある最高級ホテル『銀の月』。

 その最上階スイートルームの窓から、クロトは眼下に広がる夜景を見下ろしていた。


 煌めく魔石灯の光の海。

 ほんの数時間前まで、自分があの光の届かない地下水路で泥水を啜っていたことが嘘のようだった。

 部屋には、最上質の香油の香りが漂っている。

 肌触りの良い絨毯は、歩くたびに雲の上を歩いているような感触を足裏に伝えてくる。


「……夢見心地か? クロト」


 背後から、グラスを傾ける音がした。

 部屋のソファには、シャワーを浴びてバスローブ姿になったセレスティアがくつろいでいる。

 濡れた真紅の髪が白い肌に張り付き、湯上がりの火照った頬が、戦場とは違う艶やかな色気を放っていた。


「いえ。ただ、現実感がなくて」

「そうだろうな。地下のドブ掃除から、王都一のスイートだ。高低差で耳がおかしくなりそうだ」


 セレスティアは悪戯っぽく笑い、サイドテーブルに置かれた革袋を顎でしゃくった。


「報酬だ。確認しろ」


 クロトは革袋を手に取る。

 ズシリ、と手首に食い込む重さ。

 紐を解くと、中から眩い黄金の輝きが溢れ出した。


 金貨百枚。

 一般市民なら一生遊んで暮らせる大金であり、Sランクパーティの報酬としても破格の額だ。


「……多すぎませんか? 相場の十倍はあります」

「貴様の働きにはそれだけの価値があった。それに、スライムの核から出た『副産物』も含めての値段だ」


 セレスティアが指差した先には、テーブルの上に置かれた青白い結晶体があった。

 ジャイアント・アシッド・スライムの体内に取り込まれていた、正体不明のアーティファクト。

 古代文字が刻まれたその結晶は、微かに脈打ち、奇妙な魔力を放っている。


「鑑定の結果、それは『旧時代の記憶媒体』だと分かった。我が国で解析すれば、軍事転用できるかもしれん。貴様の手柄だ」

「なるほど。では、遠慮なく頂きます」


 クロトは金貨を懐にしまった。

 そして、テーブルに並べられた料理に手を伸ばす。

 仔羊のロースト、香草風味。希少な白身魚のムニエル。年代物の赤ワイン。

 口に運べば、濃厚な肉汁と、それを洗う芳醇な葡萄の香りが鼻腔を抜ける。


(美味い……)


 カイルたちといた頃は、食事といえば硬い干し肉か、彼らが残した冷めたスープだった。

 味わう余裕などなかった。常に次の戦闘、次の野営の準備に追われていたからだ。

 だが今は、こうして味覚の一つ一つを噛み締められる。


 クロトはワイングラス越しに、自分のステータス画面を映した。


『Level 2 → Level 5』


 強敵スライムの討伐経験値は凄まじかった。

 体力が漲っている。

 思考がクリアだ。

 これが、正当な報酬。正当な成長。


「さて、クロト。明日は早朝に出立するぞ。私の国へ向かう」

「はい。準備はできています」

「ふっ、頼もしいな。……これからは、もっと美味いものを食わせてやる」


 セレスティアがグラスを掲げる。

 クロトもまた、自分のグラスを軽く合わせた。

 澄んだ音が、輝かしい未来のファンファーレのように部屋に響いた。


          ◇


 同時刻。

 王都の裏路地、残飯と汚水の臭いが充満する吹き溜まり。


「寒い……痛い……お腹すいた……」


 リナが、ボロボロになったローブを抱きしめ、ゴミ箱の影で震えていた。

 かつて最高級の宿に泊まり、ふかふかのベッドで寝ていた彼女の姿は見る影もない。

 金髪は泥で固まり、美しい顔は煤で汚れている。


「うるせぇ! 泣いてんじゃねえよ!」


 隣で座り込んでいたカイルが怒鳴り声を上げた。

 だがその声には覇気がなく、空腹による掠れが混じっていた。


 彼らの装備は、無残な状態だった。

 カイルの黄金鎧はギルドへの弁償金として差し押さえられ、今は粗末な布の服一枚。

 唯一残ったのは、聖剣グラン・ブレイドだけだ。これだけは「勇者の証」として手放せなかったが、今のカイルにとっては、ただ重いだけの鉄屑でしかなかった。


「ちくしょう……なんでだよ……なんで俺たちがこんな目に……」


 カイルは壁を殴りつけたが、その衝撃で自分の拳を痛め、また呻き声を上げた。

 【痛覚遮断】のない拳は、あまりに脆い。


「ねえカイル……何か食べるものないの? ポーションでもいいから……」

「あるわけねえだろ! 金貨三十枚だぞ!? 有り金全部取られて、それでも足りなかったんだ!」


 ギルドでの精算は地獄だった。

 クエスト失敗の違約金、救助費用、設備の修理費。

 カイルたちが貯め込んでいた財産は、一瞬にして消え失せた。

 それどころか、借金まで背負わされ、ランクはSからDへと降格処分を受けた。


 お腹が鳴る。

 強烈な飢餓感。

 これまでは、クロトが常に栄養バランスを考えた食事を用意してくれていた。

 「腹減った」と言えば、数秒で温かい料理が出てくるのが当たり前だった。


「……クロトのせいだ」


 カイルが低い声で呟く。


「あいつが、俺たちをハメたんだ。変な呪いをかけやがって……! 金を持ち逃げしやがって……!」

「そうよ……そうに決まってる。だって私たちが、ゴブリンなんかに負けるわけないもん」


 リナも同意する。

 そう思わなければ、精神が崩壊しそうだった。

 自分たちが無能なのではない。悪いのは全て、あの裏切り者の荷物持ちなのだと。


 その時、路地裏の入口から、二人の男が入ってきた。

 身なりは悪いが、目つきの鋭い男たちだ。

 彼らはゴミのようにうずくまるカイルたちを見下ろし、ニヤリと笑った。


「おいおい、こんなところで元・勇者様が野宿か? 落ちたもんだなぁ」

「誰だ、てめえら」

「ただの親切な仲介屋さ。……聞いたぜ? 金に困ってるんだってな」


 男の一人が、懐から硬貨を数枚、チャリチャリと鳴らして見せた。

 銀貨の音。

 今のカイルたちにとって、それは悪魔の誘惑のように魅力的な響きだった。


「簡単な仕事があるんだ。Sランクの実力があるあんたらにしか頼めない、とっておきのヤマがな」

「……仕事だ? 俺たちをバカにしてんのか」

「まさか。……内容は単純。『ある人物』を襲って、荷物を奪うだけだ」


 男はカイルの耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。


「ターゲットは、今朝ギルドに来ていた荷物持ちの男。……クロトとか言ったか?」


 その名を聞いた瞬間、カイルとリナの目に、憎悪の炎が宿った。


「あいつ……! あいつを襲えばいいのか!?」

「ああ。奴は今、公爵令嬢の腰巾着になって、しこたま報酬を貰い込んでるらしい。……それを取り返せば、あんたらの借金なんて一発でチャラだ。どうだ?」


 罠の匂いがした。

 だが、飢えと憎悪、そして転落の屈辱が、カイルの理性を焼き尽くしていた。

 これは犯罪ではない。正当な制裁だ。

 あいつが盗んだ俺たちの栄光を、取り返すだけだ。


「……やってやるよ」


 カイルは聖剣を杖代わりにして、よろよろと立ち上がった。

 その顔には、かつての英雄の面影はなく、ただ欲望に塗れた強盗の表情だけがあった。


「教えてくれ。あいつはどこにいる」


 男たちは顔を見合わせ、下卑た笑みを浮かべた。

 闇の中で、悪意の歯車が噛み合う音がした。


          ◇


 翌朝。

 まだ空が白み始めたばかりの薄明の中、一台の豪華な馬車がホテルの前に停まっていた。

 ローゼンバーグ家の紋章が入った、要人専用の馬車だ。


「準備はいいか、クロト」

「はい。いつでも」


 新しい装備に身を包んだクロトが、セレスティアの手を取ってエスコートする。

 御者が鞭を振るおうとした、その時だった。


「待てぇぇぇぇッ!!」


 静寂を切り裂くような絶叫とともに、路地裏から薄汚れた人影が飛び出してきた。

 ボロボロの布を纏い、目だけを血走らせた男、カイルだ。

 その後ろから、杖を構えたリナも現れる。


「クロトォォォッ! 逃がさねえぞッ! 俺の金を返せぇぇぇッ!」


 カイルが聖剣を引きずりながら突進してくる。

 その姿は、まるで亡者のようだった。


 セレスティアが不快そうに眉をひそめる。

「……なんだ、あの汚物は。知り合いか?」

「いえ。……ただの『過去の遺物』ですよ」


 クロトは馬車のステップから降り、静かに前に立った。

 手には、昨日手に入れた黒ずんだショートソード。


「カイル。……ここまで落ちたか」


 憐れみすら込められたその言葉は、カイルの逆鱗を最も深く逆撫でした。


「うるせぇ! 偉そうに見下ろしてんじゃねえ! 死ね! 死んで償え!」


 カイルが聖剣を振り上げる。

 かつてはドラゴンすら両断した(システム補正込みの)一撃。

 だが今の彼には、剣の重さを制御する筋力も、踏み込む脚力もない。


 ブォン。


 力任せに振り下ろされた剣は、あまりに遅く、そして軌道がブレていた。


「遅い」


 クロトは一歩も動かなかった。

 ただ、剣が振り下ろされる瞬間に、手首を軽く返し、ショートソードの腹で聖剣の側面を叩いた。

 

 パァンッ!


 乾いた音が響く。

 パリィ(受け流し)。

 物理法則に逆らわず、力のベクトルを少しだけズラす技術。


 それだけで十分だった。

 全力で剣を振っていたカイルは、自身の遠心力に振り回され、独楽のように回転して地面に顔面から激突した。


「ぐべェッ!?」


 鼻が潰れる鈍い音。

 聖剣が手から離れ、虚しく石畳の上を滑っていく。


「カイル!? や、やってやる! 『ファイアボール』!」


 リナが杖を向ける。

 だが、その指先は恐怖と空腹で震えていた。

 放たれた火球は、狙いを大きく外し、馬車の遥か後方の街路樹を焦がしただけだった。


「……話にならないな」


 クロトは冷たく言い放ち、剣を納めた。

 斬る価値すらない。

 彼らはもう、敵ですらないのだ。


「行くぞ、クロト。時間の無駄だ」


 馬車の中からセレスティアの声が掛かる。

 クロトは頷き、地べたを這いずるカイルに背を向けた。


「待て……待ってくれ……置いてくな……!」


 カイルが涙と鼻血にまみれた顔を上げ、クロトの足に縋り付こうと手を伸ばす。

 だが、その手は届かない。


 馬車が動き出す。

 車輪が石畳を転がり、カイルたちを過去へと置き去りにしていく。


 窓の外、遠ざかる王都の景色を見ながら、クロトは思った。

 かつての栄光も、友情も、全てはこの朝霧の向こうに消えたのだと。

 

 そして馬車は、新たな舞台――軍事大国ガルガディアへとスピードを上げていった。


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