第6話:レベル2の指揮官
王都の地下には、もう一つの都市が広がっていると言われる。
それは華やかな地上の繁栄を支えるための、巨大な下水処理機構だ。
石造りの水路が迷路のように張り巡らされ、都市中の汚水と、そして行き場を失った闇が流れ着く場所。
鼻を突く腐敗臭。
足元を流れる汚水が立てる、チョロチョロという不快な水音。
壁には得体の知れない苔が密生し、微かな燐光を放っている。
「……臭いな。鼻が曲がりそうだ」
深紅のドレスアーマーに身を包んだセレスティアが、ハンカチで口元を覆いながら顔をしかめた。
その立ち姿は、泥にまみれた地下道にあって、一輪の薔薇のように異質で鮮烈だ。
「我慢してください。ここが一番のマッピングポイントなんです」
クロトはランタンを掲げ、湿った壁に刻まれた古びた記号を指でなぞった。
レベル2の荷物持ち。
装備は、先ほど買ったばかりの黒ずんだショートソードと、継ぎ接ぎだらけの革鎧のみ。
だが、その足取りには迷いがない。
「今回のターゲットは『ジャイアント・アシッド・スライム』。強酸性の粘液を持つ変異種です。通常のスライムと違い、物理攻撃はほぼ無効。しかも、この狭い通路で酸を撒き散らされたら、あなたの美しい鎧も台無しになる」
「ふん。ならば魔法で焼き払うまでだ」
セレスティアが掌に炎を灯そうとする。
その瞬間、クロトの手が伸び、彼女の手首を掴んで制止した。
「やめてください。死にますよ」
「……なんだと? 貴様、私に指図するか」
セレスティアの瞳が剣呑に細められる。
殺気が肌を刺すが、クロトは手を離さず、冷静に天井を指差した。
「上を見てください。白っぽい靄が溜まっているでしょう。あれはメタンと可燃性ガスの混合気体です。ここで火を使えば、スライムを倒す前に僕たちが爆発でミンチになります」
セレスティアは天井を見上げ、鼻をひくつかせた。
確かに、腐敗臭に混じって、特有の揮発性の匂いが漂っている。
もしクロトが止めなければ、今頃この一帯は崩落していただろう。
かつてのリナなら、忠告を聞かずに爆破していただろう場面だ。
「……なるほど。気配りだけはできるようだな」
「生き残るための計算です。火気厳禁。雷撃もなし。使えるのは風か、あるいは純粋な物理衝撃のみ」
「注文の多い案内人だ。だが、悪くない」
セレスティアは炎を消し、腰のレイピアを抜いた。
白銀の刀身が、ランタンの光を反射して冷たく輝く。
「来るぞ。お喋りは終わりだ」
彼女の警告と同時に、通路の奥から「ズズズ……」という重たい音が響いてきた。
汚水が逆流し、巨大な緑色のゼリー状の物体が迫ってくる。
通路の幅いっぱいに広がったそれは、壁の石材をジュワジュワと溶解させながら、猛スピードで突進してきた。
ジャイアント・アシッド・スライム。
推定レベル40。
レベル2のクロトがまともに触れれば、骨まで溶かされて即死する相手だ。
「下がっていろ、荷物持ち。私が斬る」
セレスティアが踏み込む。
その速度は疾風の如し。
レイピアが閃き、スライムの核を目掛けて突き出される。
だが、クロトの目は、スライムの体表が微かに波打ったのを見逃さなかった。
「止まれ! 右に回避!」
思考するより早く、クロトは叫んでいた。
セレスティアの反応は劇的だった。
疑問を挟む余地もなく、突き出したレイピアを強引に引き戻し、右側の壁へと跳躍する。
シュッ!
直後、彼女がいた空間を、高圧の酸の奔流が貫いた。
スライムが体の一部をポンプのように収縮させ、酸鉄砲を放ったのだ。
もし回避していなければ、彼女の顔面はドロドロに溶けていただろう。
「……ッ、小賢しい真似を!」
セレスティアが壁を蹴り、体勢を立て直す。
その額に冷や汗が伝う。
彼女の実力なら倒せる相手だ。だが、初見殺しの奇襲に対応できたのは、クロトの声があったからこそだ。
「核は流動しています! 常に体の中心からズレて動いている!」
「チッ、ならば千切れになるまで刻むだけだ!」
「効率が悪い! 僕が位置を指示します。あなたの速度なら、指示を聞いてからでも間に合うはずだ!」
クロトはランタンを地面に置き、自身もショートソードを抜いた。
戦うためではない。
指揮棒として振るうためだ。
彼の「眼」が、スライムの体内を流れる魔力の奔流を捉える。
粘液の流動パターン。
核の移動予測。
そして、セレスティアの剣速。
全ての変数が、脳内で一つの解へと収束していく。
「右三〇度、高さ腰の位置! 突きだ!」
セレスティアは迷わなかった。
クロトの声を信じ、視覚情報よりも聴覚情報を優先してレイピアを繰り出す。
ズプッ。
手応えはない。だが、スライムの動きが一瞬鈍る。
「次は左下! 払い抜け!」
「ハッ!」
銀閃が走る。
粘液が飛び散るが、セレスティアの体に触れる前に、彼女はすでに次の位置へと移動している。
クロトの指示は、攻撃位置だけでなく、回避ルートまで含めたものだったからだ。
(……凄い)
セレスティアは戦慄していた。
自分の体が、まるで自分の意思を超えた何かによって操縦されているような感覚。
視界の死角、敵の予備動作、環境の障害物。
それら全てをこの男が管理し、最適解だけを彼女に送信してくる。
彼女はただ、その最適解に合わせて剣を振るだけでいい。
思考のリソースを全て「攻撃」に割り振れる快感。
重厚な鎧を着て泥沼を走っているはずなのに、まるで舞踏会場で踊っているかのような軽やかさ。
「これが……貴様の『案内』か……ッ!」
セレスティアの唇が弧を描く。
楽しい。
戦いが、これほどまでにクリアで、美しいものだと感じたのは初めてだ。
「次で終わります! 敵が収縮する、酸の雨が来るぞ!」
スライムが大きく膨れ上がり、全方位に酸を撒き散らす構えを見せる。
回避場所はない。
通路全体が攻撃範囲だ。
「壁を蹴って天井へ! 真上から核を貫け!」
常軌を逸した指示。
だが、セレスティアは笑った。
彼女は通路の壁を垂直に駆け上がり、重力を無視して天井の梁を蹴った。
酸の雨が、彼女の足元を虚しく通り過ぎていく。
空中に舞う真紅の華。
眼下には、無防備に核を晒したスライム。
「これでぇぇぇッ! 終わりだァァァッ!」
落下の運動エネルギーを乗せた、必殺の一撃。
レイピアが彗星のように煌めき、緑色の核を正確無比に貫いた。
パァァァンッ!!
核が砕け散る音。
スライムの巨体が形を保てなくなり、ただの汚水となって崩れ落ちていく。
セレスティアは華麗に着地し、残心もそこそこに剣を納めた。
飛沫一つ浴びていない。完璧な勝利。
「……ふぅ」
彼女は乱れた呼吸を整え、髪をかき上げた。
そして、ランタンを持って近づいてくるクロトを、まるで未知の宝石を見るような目で見つめた。
「貴様、名はなんと言った?」
「……さっき名乗りましたよ。クロトです」
「そうだったな。訂正しよう、クロト。貴様はただの荷物持ちではない」
セレスティアは歩み寄り、クロトの胸元を人差し指で突いた。
「貴様は『指揮官』だ。私の剣を、ここまで自在に操った者は初めてだぞ」
それは、最大級の賛辞だった。
王国の騎士団長ですら、彼女の直感的な動きにはついてこれなかった。
それを、出会って数時間の、しかもレベル2の男が完全に御してみせたのだ。
「光栄です。ですが、あなたの剣技があってこその作戦でした。あの速度で動ける人間は、僕の知る限りあなたしかいない」
クロトもまた、素直に称賛した。
カイルならば、指示を聞かずに突っ込み、酸を浴びて「回復しろ!」と喚いていただろう。
リナならば、パニックになって爆発を起こしていただろう。
セレスティアには、聞く耳と、それを実行する実力があった。
パチリ。
二人の視線が交差する。
そこには、主従でも、恋人でもない、プロフェッショナル同士の共犯関係のような火花が散っていた。
「気に入った。クロト、貴様を私の専属としよう」
「専属?」
「ああ。私の国へ来い。貴様のような人材を、このような掃き溜めに置いておくのは損失だ。私が貴様に、相応しい戦場と、地位と、そして力を与えてやる」
それは、破格の提案だった。
隣国ガルガディアの大公家。
そこで地位を得れば、クロトを追放した勇者パーティなど、足元にも及ばない権力を手にすることになる。
クロトは少し考え、そしてニヤリと笑った。
「悪くない話ですが……まずはこの依頼の『成果払い』を頂いてからですね」
「ふっ、守銭奴め。いいだろう、望むだけの額を払ってやる」
セレスティアが愉快そうに笑う。
暗い地下水路に、二人の足音が響く。
それは、世界を揺るがす最強のペアが誕生した瞬間だった。
一方その頃。
地上の冒険者ギルドでは、装備を差し押さえられ、安宿にも泊まれなくなったカイルたちが、路地裏で寒さに震えていた。
彼らはまだ知らない。
自分たちが捨てた「誤差」が、手の届かない高みへと駆け上がり始めていることを。
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