第5話:鉄血姫のスカウト
王都の裏路地には、独特の匂いがある。
排水溝から立ち上る湿ったドブの臭気、路上の屋台が焼く香辛料の刺激臭、そして、どこかで鉄を打つ乾いた金属音。
表通りの華やかさとは無縁の、生活と欲望が沈殿した場所。
だが、今のクロトにとって、その猥雑な空気さえも心地よかった。
彼は深く息を吸い込み、肺を満たす。
これは自由の味だ。誰の顔色を伺う必要もなく、誰の尻拭いをする必要もない。
クロトは懐の銀貨五枚の感触を確かめ、目的の場所へと足を進めた。
古びた木製の看板に『グリム武具店』とだけ記された、半地下の小さな店だ。
カイルたち勇者一行は、大通りにある王室御用達の煌びやかな店しか利用しなかった。装飾過多で実用性に欠ける剣を、言い値で買わされていたとも知らずに。
だが、本物はこういう場所にこそ眠っている。
ドアを開けると、カランコロンと錆びついたベルが鳴った。
店内は薄暗く、酸化した油と鉄の重い匂いが充満している。
無造作に積み上げられた防具の山。棚に突き刺さった無数の剣。
一見すればガラクタの山だが、クロトの目には宝の山に見えた。
「いらっしゃい。冷やかしなら帰んな」
カウンターの奥から、片目に眼帯をした頑固そうな老店主が声をかける。
クロトは軽く会釈をし、無言で棚を物色し始めた。
今の所持金は銀貨五枚。
この予算で買える武器など、たかが知れている。
なまくら刀か、刃こぼれした中古品が関の山だ。
しかし、クロトには選ぶ基準があった。
(切れ味はいらない。今の筋力じゃ、硬い鎧は斬れないからな。必要なのは、頑丈さと、重心のバランスだ)
彼は一本のショートソードを手に取った。
鞘はなく、刀身は煤けて黒ずんでいる。
柄の革紐も擦り切れており、誰が見ても廃棄寸前の鉄屑だ。
だが、クロトは指先で刀身を弾いた。
チン、と澄んだ高音が響く。
内部に気泡が入っていない、均質な密度の証だ。
次に、人差し指一本で剣の重心を支えてみる。
剣はピタリと水平を保ち、揺らぐことがない。
(鍛造の温度管理が完璧だ。見た目は悪いが、芯が通っている)
これなら、受け流し(パリィ)に使っても折れない。
今の自分に必要なのは、一撃必殺の火力ではなく、生存するための盾となる武器だ。
「おっちゃん。これ、いくらだ」
「あん? そいつは失敗作だ。焼き入れの時に煤がついちまってな、誰も買わねえよ。銀貨三枚でいい」
「もらうよ」
クロトが即決し、銀貨をカウンターに置こうとした時だった。
「待ちなさい」
凛とした、だが絶対的な響きを持つ声が、薄暗い店内に響いた。
クロトが振り返ると、店の入り口に一人の少女が立っていた。
深紅のフードを目深に被り、顔の半分は隠れている。
だが、その隙間から覗く唇は宝石のように艶やかで、わずかに覗く瞳は、溶岩のように熱く、冷徹な真紅の色をしていた。
身につけている服は冒険者風だが、仕立ての良さと、漂う気品は隠しようもない。
(……貴族か? いや、それにしては隙がない)
少女はヒールの音を響かせ、クロトの目の前まで歩み寄る。
そして、クロトの手にある黒ずんだ剣を、侮蔑に満ちた目で見下ろした。
「貴様、目利きができぬのか? そのような煤けた鉄屑、金溝に金を捨てるようなものだぞ」
「鉄屑に見えますか?」
「どう見てもゴミだ。隣にある装飾剣の方が、まだマシな鉄を使っている」
少女はショーケースに飾られた、ピカピカに磨かれたロングソードを指差した。
確かに見栄えは良い。
だが、クロトは首を横に振る。
「あれはダメだ。重心が切っ先に寄りすぎている。素人が振れば遠心力で威力が出るが、リカバリーが遅れる。乱戦になれば死ぬ剣だ」
「……ほう?」
「対してこいつは、見た目は最悪だが、重心が手元にある。指先一つで軌道を変えられる。筋力のない人間が、格上相手に立ち回るなら、これしかない」
クロトは淡々と事実を述べた。
少女の紅い瞳が、わずかに細められる。
値踏みするような、射抜くような視線。
「筋力がない、か。……貴様、レベルは?」
「2です」
「レベル2……。ふん、雑魚か」
少女は鼻で笑った。
しかし次の瞬間、彼女の右手が霞のようにブレた。
ヒュッ!
彼女が腰に下げていた短剣を抜き放ち、クロトの首筋へと突き出したのだ。
殺気はない。
だが、速度は尋常ではない。
常人なら瞬きする間に喉を穿たれる速度。
クロトは動かなかった。
身動ぎ一つせず、瞬きすらしなかった。
切っ先が、クロトの喉仏の皮一枚手前でピタリと止まる。
冷たい金属の感触が、肌に触れるか触れないかの距離で静止している。
「……避けないのか? 死ぬぞ」
「殺気がなかった。それに、その軌道なら、ここで止まると分かっていた」
クロトは表情を変えずに答える。
嘘ではない。
彼女の肩の筋肉の収縮、踏み込みの深さ、そして視線の角度。
それら全てが「寸止め」を示唆していた。
だから、無駄な回避行動を割く必要がないと判断しただけだ。
少女の口元が、三日月のように歪んだ。
それは嗜虐的でありながら、どこか獲物を見つけた猛禽類のような笑みだった。
「……面白い。レベル2の反応速度ではないな」
彼女は短剣を収めると、フードを脱ぎ捨てた。
現れたのは、燃えるような真紅の髪と、白磁の肌。
その美貌は、王都の華やかな貴婦人たちですら霞むほど圧倒的で、同時に、戦場に咲く血の花のような凄味があった。
「名は?」
「……クロトだ」
「クロトか。覚えておこう。私はセレスティア。……セレスティア・フォン・ローゼンバーグだ」
ローゼンバーグ。
その名を聞いた瞬間、奥で居眠りをしていた店主が椅子から転げ落ちそうになった。
隣国、武帝国家ガルガディアの大公家。
その次期当主にして、自ら騎士団を率いて魔境を制圧したという、『鉄血の公爵令嬢』。
(なんでそんな大物が、こんな裏路地に……)
クロトが警戒心を強めると、セレスティアは懐から一枚の硬貨を取り出した。
金貨だ。それも、王都で流通しているものより一回りは大きい、純金の古銭。
彼女はそれを指先で弾き、クロトの胸元へと投げた。
「拾え。契約金だ」
「……なんの契約だ?」
「私の『目』になれ。今夜、王都の地下水路に巣食う害獣を駆除しに行く。案内役が必要だ」
唐突すぎる依頼。
しかも相手は他国の要人。
常識的に考えれば、関わるべきではない案件だ。
だが、クロトは胸元の金貨をキャッチし、その重みを掌で感じた。
カイルたちから投げつけられた、あの泥まみれの金貨とは違う。
これは、自分の「技術」に対する、正当な前金だ。
「……害獣駆除にしては、随分と高い餌だ」
「私の命を預けるのだ。安い方だろう? それとも、自信がないか? レベル2の荷物持ち殿」
挑発的な視線。
だが、その奥には「私を失望させるなよ」という、強烈な期待が見え隠れしていた。
クロトは、手の中の黒ずんだショートソードを握りしめる。
この剣の真価を見抜いたのは自分だけだ。
そして、この少女もまた、クロトという「一見ガラクタに見える素材」の真価を見抜こうとしている。
「いいだろう。ただし、追加料金は成果払いだ」
「ふっ、強欲な男だ。嫌いではないぞ」
セレスティアは満足げに踵を返した。
深紅の髪が翻る。
「日没後、北門の詰め所にこい。……遅れたら斬る」
言い残して去っていく背中を見送りながら、クロトは小さく息を吐いた。
とんでもない相手に目をつけられたものだ。
だが、不思議と悪い気分ではなかった。
少なくとも彼女は、クロトのレベルではなく、クロトの「眼」を見ていた。
「おい、兄ちゃん……あの嬢ちゃん、マジで鉄血姫か?」
「さあな。ただの生意気な金持ちかもしれない」
クロトは銀貨三枚をカウンターに置き、黒ずんだ剣を腰に差した。
その柄の感触は、驚くほど手に馴染んでいた。
(まずは、この剣の試し斬りといくか)
クロトは店を出る。
路地裏の風が、新しい始まりを告げるように吹き抜けていった。




