第3話:その日、勇者は『ゴブリンの棍棒』の痛さを知った
地下迷宮アビス・ゲート、第七階層の朝は、最悪の目覚めで始まった。
「……あ、が……ッ。体が、痛ぇ……」
勇者カイルは、呻き声を上げながら身を起こした。
背中が軋むように痛い。首が回らない。
まるで岩盤の上で直接寝たかのような不快感だ。実際、彼が寝ていたのはゴツゴツとした岩場だったのだが、これまではそんな感触など微塵も感じなかったはずだ。
これまでは、クロトが寝袋の下に【環境調整】の付与を施し、ふかふかのベッドのような寝心地を提供していたからだ。
だが、カイルはその事実に思い至らない。
「クソッ、なんだこの湿気は。それに、喉が渇いた……おいクロト、水だ。冷えたやつを持ってこい」
カイルは無意識に手を伸ばした。
いつもなら、その手には最適な温度に調整された革袋が握らされるはずだった。
しかし、その指先が掴んだのは、冷たく湿った虚空だけだった。
「……あ? おい、聞いてんのかよ」
苛立ちを隠さずに振り返る。
そこには、冷え切った焚き火の跡と、無造作に転がるゴミの山があるだけだった。
昨晩食い散らかした高級肉の骨には、すでに羽虫がたかり始めている。
「あ……そっか。あいつ、追い出したんだった」
隣で身を起こした魔法使いのリナが、不満げに髪をかき上げた。
彼女の自慢の金髪は、寝汗と埃でベタつき、毛先が鳥の巣のように絡まっている。
これまでは朝起きれば、自動的に【洗浄】魔法がかけられ、身支度が整っていたのだ。
「最悪ぅ。髪ボサボサじゃない。ねえカイル、早く帰ろうよ。お風呂入りたい」
「ああ、そうだな。こんなジメジメした場所、俺たちの居場所じゃねえ」
カイルは舌打ちをし、足元に置いてあった愛剣――聖剣グラン・ブレイドに手を伸ばした。
オリハルコン製の刀身を持つ、国家予算クラスの名剣。
彼はそれを、いつものように片手で掴み上げ――
「ぬ、おッ……!?」
ズシリ、という重みに体勢を崩した。
剣が持ち上がらないのではない。
予想していた重量と、実際の重量との間に致命的なギャップがあり、腰に強烈な負荷がかかったのだ。
「ぐっ……! な、なんだ今日は……体が重いな」
「昨日の疲れが残ってるんじゃない? ほら、ドラゴン倒したし」
「ちげえねえ。……くそ、やっぱり昨日の火傷が痛むな」
カイルは左腕を見た。
赤く腫れ上がった火傷の痕。ポーションをかけたはずだが、痛みが引かない。
ズキズキと脈打つような熱感が、神経を逆撫でする。
これまでは【痛覚遮断】のおかげで、骨が折れようが肉が裂けようが「HPバーが減る」という視覚情報でしかなかった。
しかし今の彼を襲っているのは、生身の人間が感じる生理的な警告信号としての「苦痛」だ。
「まあいい。こんなダンジョン、さっさと抜けて地上に戻るぞ」
カイルは無理やり剣を肩に担いだ。
その額には、脂汗が滲んでいる。
リナもまた、杖を杖代わりにして、重たそうに歩き出した。
◇
帰路につき始めて数十分。
二人の足取りは、鉛を引きずっているかのように重かった。
足場が悪い。
苔で滑る岩、足首を挫きそうな窪み。
これまでは【地形適応】のアシストが、どんな悪路でも平地のように歩かせてくれていた。
だが今は、一歩進むごとにバランスを取り、筋肉を緊張させなければならない。
Sランク冒険者とはいえ、基礎体力トレーニングなど何年もサボっていた彼らの肉体は、すでに悲鳴を上げ始めていた。
「はぁ、はぁ……遠い……出口、こんなに遠かったっけ……?」
「うるせえ、歩けよ。……チッ、何か来やがった」
カイルが足を止める。
前方の通路から、ペタペタという湿った足音が近づいてくる。
現れたのは、一匹のマッド・ゴブリンだった。
錆びついた手斧ではなく、太い動物の大腿骨で作った粗末な棍棒を引きずっている。
身長は子供ほどしかなく、体つきも貧相だ。
「なんだ、雑魚かよ」
カイルはあからさまに安堵の息を吐き、口元を歪めた。
ドラゴンを屠った自分たちにとって、ゴブリンなど路傍の石ころ以下の存在だ。
「リナ、お前がやれ。俺は剣を下ろすのが面倒だ」
「えー、魔力もったいないしぃ。カイルが殴れば終わりじゃん」
「チッ、わがままだな。……よし、見てろ。一撃でミンチにしてやる」
カイルは聖剣を構えた。
いつものように。
何も考えず、ただ踏み込んで、剣を振り下ろす。
脳内イメージでは、瞬きの間に間合いを詰め、剣閃一閃、ゴブリンは両断されているはずだった。
「オラァッ!」
カイルが地面を蹴る。
だが、その踏み込みは浅く、遅い。
重い鎧と大剣の重量が、加速を殺している。
それでも、腐ってもSランク装備の威力はある。
振り下ろされた刃は、ゴブリンの頭蓋を砕く――はずだった。
「ギャッ?」
ゴブリンが、無造作に半歩下がった。
それだけで、カイルの剣は空を切った。
ブンッ!
剣風が空気を揺らす。
だが、問題はそこからだ。
十キロを超える金属塊を全力で振り回し、それが空振りした時、何が起こるか。
強烈な慣性が、カイルの体を前方へと引っ張り込む。
「う、おぉッ!?」
カイルは前のめりに体勢を崩した。
【バランサー補正】はもうない。
彼は無様にたたらを踏み、ゴブリンの目の前で隙だらけの背中を晒してしまった。
「ギヒッ!」
ゴブリンは見逃さない。
野生の獣としての本能が、目の前の獲物が「弱者」であると判断した。
振り上げられた白い骨の棍棒。
それが、カイルの無防備な脛を目掛けて、全力で叩きつけられた。
ゴシャァッ!
硬質で、嫌な音が響いた。
金属製のレガース(脛当て)の上からでも分かる、骨が砕ける感触。
「――ッ!?」
一瞬、カイルは何が起きたのか理解できなかった。
ただ、視界が白滅し、呼吸が止まった。
遅れて、脳髄を焼き切るような激痛が、足元から爆発した。
「ぎ、ああああああああああああああッ!!!」
絶叫。
カイルはその場に転がり、自分の足を抱えてのたうち回った。
痛い。痛い痛い痛い痛い。
HPバーが減るなんて生易しいものではない。
神経が直接ヤスリで削られるような、耐え難い拷問。
「な、なに……え? カイル!?」
リナが呆然と立ち尽くす。
目の前の光景が信じられない。
あの最強の勇者が、たかがゴブリンの一撃で、子供のように泣き叫んでいる。
「リナッ! 魔法だ! 殺せ! こいつを殺せぇぇぇッ!」
「わ、わかった! 『ファイアボール』!」
パニックに陥ったリナは、詠唱もそこそこに杖を振るった。
照準など定めていない。
ただ、この恐怖を払拭したい一心で放たれた炎の弾丸。
それはゴブリンに向かって飛んだが――射線軸上には、転げ回るカイルがいた。
「ひッ!?」
カイルが目を見開く。
迫りくる紅蓮の炎。
いつもなら、味方に当たった魔法は霧のように透過し、敵だけを燃やす。
だから彼は避けない。避ける必要がなかった。
ドォォォォンッ!!
着弾。
爆風が狭い通路を駆け抜ける。
「ギャベェッ!」
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!」
ゴブリンが吹き飛ぶと同時に、カイルの体もまた、炎に包まれて宙を舞った。
壁に叩きつけられる鈍い音。
肉が焼ける嫌な臭い。
「嘘……あたった……? なんで……?」
リナは震える手で口元を覆った。
カイルが、炭のように焦げた鎧の隙間から、赤い皮膚を晒してピクピクと痙攣している。
髪はチリチリに燃え、自慢の黄金の鎧は煤まみれだ。
「痛い……熱い……死ぬ……誰か、回復……クロト……回復薬……」
カイルがうわ言のように呟く。
その瞳は、焦点が合わず、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
そこに、かつての英雄の威厳など欠片もない。
ガサッ。
瓦礫が動く音がした。
爆心地から、黒焦げになったゴブリンが、ふらふらと立ち上がる。
致命傷ではない。
ゴブリン特有のしぶとさで、まだ息がある。
その双眸が、今度はリナを捉えた。
敵意と、食欲に満ちた濁った瞳。
「ひっ、い、嫌ぁッ! 来ないで!」
リナは悲鳴を上げ、無我夢中で杖を振り回した。
だが、恐怖で魔力制御が乱れた魔法は不発に終わり、ただの火花が散るだけだ。
ゴブリンが跳ぶ。
その手には、まだあの骨の棍棒が握られている。
「たすけてぇぇぇぇッ!!」
リナはカイルを引きずることも忘れ、背を向けて走り出した。
プライドも、名誉も、仲間もかなぐり捨てて。
ただ、この理不尽な「現実」から逃げ出すために。
「待て……リナ、俺を……置いてくな……足が、動かねぇんだ……!」
カイルが手を伸ばす。
だが、その指先は誰にも届かず、冷たい地面を掻いただけだった。
背後で、ゴブリンの下卑た笑い声が近づいてくる。
これが、現実。
クロトという「緩衝材」を失った世界が、彼らに突きつけた、あまりにも残酷で、そして正当な答えだった。




