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第2話:レベル1のSランク眼(アイ)

こちらは連載版です。

 カイルたちと別れた安全地帯から、わずか数百メートル。

 クロトは、壁に手をつき、荒い呼吸を繰り返していた。


 肺が焼けるように熱い。

 心臓が肋骨を内側から殴りつけるような早鐘を打っている。

 背負ったバックパックの重さが、鉛の塊となって肩に食い込んでいた。


 これまで、スキル【チュートリアル管理】の『重量軽減』によって羽のように感じていた荷物が、本来の質量を取り戻し、容赦なくクロトの体力を奪っていく。


「はぁ……はぁ……、これが、現実の重さか」


 クロトは口元に浮いた汗を手の甲で拭った。

 装備の手入れ道具、予備のポーション、数日分の保存食。合わせて四十キログラムはあるだろうか。

 レベル1の貧弱な筋力には、ただ歩くだけでも拷問に近い負荷だった。


 だが、クロトの口元には、微かな笑みが浮かんでいた。

 この痛みは、誰の代わりでもない。

 彼自身の筋肉が悲鳴を上げ、彼自身の神経が訴えている痛みだ。

 その事実が、たまらなく愛おしい。


 クロトは、湿った岩肌に背中を預け、一度呼吸を整えることにした。

 闇の奥を見る。

 第七階層の空気は重く、澱んでいる。

 光源は、腰に下げたランタンの心もとない灯りだけ。


 この三年間、クロトは常にパーティの最後尾にいた。

 前衛のカイルが敵を薙ぎ払い、リナの魔法が道を切り開くのを、後ろから見ているだけだった。

 だから、こうして一人でダンジョンの闇と対峙するのは、冒険者になってから初めてのことと言ってもいい。


 チリッ。


 不意に、うなじの毛が逆立つ感覚があった。

 殺気。

 いや、もっと原始的な、捕食者の気配だ。


 クロトは息を止める。

 視線を鋭く巡らせる。

 ランタンの光が届かない闇の境界線。

 そこにある岩陰から、腐った肉のような異臭が漂ってきた。


 ――来る。


 クロトが腰のダガー(短剣)に手をかけた瞬間、闇が弾けた。


「ギャァァァッ!」


 耳障りな金切り声とともに、小柄な影が飛び出してくる。

 ゴブリンだ。

 深層域に適応し、皮膚が緑色からどす黒い茶色に変色した変異種、マッド・ゴブリン。

 手には錆びついた手斧が握られている。


 その動きは速い。

 一般の冒険者なら、反応できずに首を飛ばされていただろう。


 だが、クロトの目には、その光景がまるでスローモーションのように映っていた。


(右足の踏み込みが深い。重心が左に寄っている。狙いは俺の首筋。斧の軌道は、斜め上四十五度からの袈裟懸け)


 情報が脳内を駆け巡る。

 この三年間、クロトはずっと見てきたのだ。

 アビス・ドラゴンの音速を超える爪撃を。

 深層の悪魔が放つ、不可視の魔法を。

 それらを瞬時に解析し、カイルたちに指示を出すために鍛え上げられた動体視力と戦術眼。

 それは紛れもなく、Sランク冒険者すら凌駕する領域にある。


(見える。完全に、見切れる)


 クロトは、脳内で完璧な回避ルートを描いた。

 半歩右にスライドし、斧を紙一重で躱す。

 すれ違いざまにダガーを逆手に持ち、無防備になったゴブリンの脇腹――肋骨の隙間にある心臓を貫く。

 所要時間、〇・八秒。


 よし、行ける。

 クロトは脳内のイメージ通りに、右足を踏み出した。


 ――はずだった。


「ッ……!?」


 ガクンッ、と膝が折れた。

 反応しなかったのだ。

 イメージの速度に、レベル1の筋肉が。


 脳からの命令は完璧だった。だが、それを実行するための瞬発力も、脚力も、この体には備わっていない。

 半歩動くはずの足は、泥に嵌ったように重く、わずか数センチしか動かなかった。


(しまっ――)


 回避が間に合わない。

 錆びついた斧の刃が、目前に迫る。

 死の感触。


 クロトは反射的に体を捻り、バックパックを盾にするように背中を向けた。


 ドゴォッ!


 鈍い衝撃が背中を走り、クロトの体は枯れ木のように吹き飛ばされた。

 地面を転がり、汚泥の中に顔を突っ込む。

 バックパックの中で、何かが砕ける音がした。


「ぐ、ぅ……ッ!」


 激痛。

 背骨が軋み、肺の中の空気が強制的に吐き出される。

 口の中に、泥と血の味が広がった。


「ギャギャッ! ギヒヒヒ!」


 ゴブリンが下卑た笑い声を上げながら、距離を詰めてくる。

 獲物は弱っている。殺せる。そう確信した動きだ。


 クロトは泥まみれの顔を上げた。

 恐怖はない。

 あるのは、冷徹なまでの自己分析と、湧き上がるような興奮だった。


(なるほど……これが『現実』か)


 意識と肉体の乖離。

 頭では分かっていても、体がついてこないもどかしさ。

 今まで【チュートリアル管理】の『必中補正』や『自動回避』で誤魔化されていた、致命的な弱点。


 だが、だからこそ面白い。

 システムに守られた予定調和の勝利ではない。

 一手間違えれば死ぬ、綱渡りのような生の実感。


 クロトはよろめきながら立ち上がる。

 ダガーを握る右手が震えている。恐怖ではなく、筋力不足による痙攣だ。


(正面からの撃ち合いじゃ勝てない。スピード勝負も分が悪い。なら――)


 クロトは視線を走らせる。

 足元のぬかるみ。

 天井から垂れ下がる鍾乳石。

 そして、ゴブリンの赤く充血した目。


 ゴブリンが跳んだ。

 今度は突きだ。

 直線的で、力任せな一撃。

 クロトの目は、やはりそれを完全に見切っている。


 今度は避けない。

 クロトは左手を前に突き出した。


 ザシュッ!


 斧の先端が、クロトの左腕を掠め、肉を裂いた。

 鮮血が舞う。

 焼けるような痛み。

 だが、骨までは届いていない。


「捕まえたぞ」


 クロトは、痛みに顔を歪めるどころか、獰猛に笑った。

 肉を斬らせたことで、ゴブリンの斧がクロトの腕の筋肉に挟まり、一瞬だけ動きが止まる。

 そのコンマ数秒の隙。

 クロトのような「眼」を持つ者には、永遠にも等しい時間だ。


 クロトは右手のダガーを振り上げた。

 狙うのは心臓ではない。

 レベル1の筋力では、ゴブリンの硬い肋骨を貫けない可能性がある。


 狙うのは――眼球。

 脳へと直結する、生物共通の急所。


「死ね」


 感情を排した声とともに、ダガーが閃く。

 ゴブリンが驚愕に目を見開いた、そのど真ん中に、鋼の刃が吸い込まれた。


 ズチュッ。


 果実を潰したような湿った音が響く。

 刃は眼窩を貫き、頭蓋の奥にある脳幹を破壊した。


「ギ、ガ……ッ!?」


 ゴブリンの体が硬直する。

 断末魔すら上げられず、その四肢から力が抜け落ちていく。

 クロトは倒れ込むゴブリンの死体とともに、その場へ崩れ落ちた。


 静寂が戻る。

 聞こえるのは、自分の荒い呼吸音と、ポタポタと地面に落ちる血の音だけ。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 勝った。

 たかがゴブリン一匹。

 カイルたちなら鼻歌交じりで蹴散らす雑魚相手に、左腕を犠牲にする辛勝。

 だが、この勝利の味は、これまでのどんなSランククエスト達成時よりも濃厚だった。


 ドクン。


 不意に、心臓の奥で温かな光が弾ける感覚があった。

 これまでは感じることのなかった、力の奔流。

 魔力が循環し、細胞の一つ一つが作り変えられていくような高揚感。


 クロトは震える手で、システムウィンドウを開いた。


『討伐確認:マッド・ゴブリン』

『経験値を獲得しました』

『レベルアップ! Level 1 → Level 2』


 その文字列を見た瞬間、クロトの目頭が熱くなった。


「……やっと、か」


 三年越しの、初めてのレベルアップ。

 【揺り籠】に吸われることも、誰かの身代わりになることもない。

 この傷も、この痛みも、そして得られた力も。

 全てが、自分だけのものだ。


 クロトは左腕の傷にポーションを振りかけながら、ゴブリンの死体を見下ろした。

 不思議と、恐怖はもうなかった。

 自分の弱さを知った。

 そして、その弱さを知恵と経験で補えば、戦えることも知った。


「悪くない」


 クロトは立ち上がる。

 レベルが一つ上がったことで、体の重みがほんの少しだけマシになった気がした。

 バックパックを背負い直す。


 目指すは地上。

 道のりは遠く、険しい。

 だが、今のクロトにとって、その困難すらも「攻略すべきクエスト」として輝いて見えた。


 彼は一歩を踏み出す。

 その足取りは、まだ覚束ないが、確かに大地を踏みしめていた。

 

 一方その頃。

 クロトが去った安全地帯の方向から、微かな悲鳴が聞こえたような気がしたが、彼はもう足を止めることはなかった。

 それはもう、彼とは違う世界レイヤーの出来事なのだから。


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