第11話:閑話 北の熱狂、南の絶望
【Side:ガルガディア軍 重装歩兵隊長ヴァンスの視点】
俺は、震える手で兜を脱いだ。
頭から湯気が立ち上る。
それは体温の熱気か、それとも死の淵から生還した興奮によるものか、自分でも分からなかった。
目の前には、白銀の雪原を黒く塗りつぶすほどの、魔物の死体が広がっている。
スノーウルフ。アイス・ゴレム。
その数、およそ3000。
俺たち人間が、ましてや急ごしらえの混成部隊が、正面からぶつかって勝てる相手ではなかったはずだ。
「おい……ヴァンス。俺たち、生きてるのか?」
部下が、信じられないものを見る目で自分の手を見つめている。
俺は彼の肩を力任せに叩いた。
「ああ、生きてるぞ! 五体満足でな!」
本来なら、ここには死体の山が築かれているはずだった。
視界ゼロの猛吹雪。
どこから牙が届くかも分からない恐怖。
俺も最初は、あの若い軍事顧問……クロトといったか。あのレベル5の小僧の指示になど、従う気はなかった。
盾を傾けろ? 3歩下がれ?
戦場を知らぬ素人の戯言だと思った。
だが、結果はどうだ。
俺たちが下がったその場所に、巨大な氷塊が落ちてきた時の戦慄。
もし、あの指示が1秒でも遅れていたら。
もし、俺たちが反発して動かなければ。
今頃、俺たちは雪の下でひしゃげた肉塊になっていただろう。
「すげぇ……魔法使いみてぇな予知能力だったな」
「いや、あれは予知じゃねえ。計算だと言ってたぞ」
兵士たちの間で、さざ波のように驚嘆の声が広がる。
俺は視線を向けた。
戦場の中心、セレスティア殿下の隣で、馬上でぐったりとしている黒髪の青年を。
細い。
あまりにも華奢だ。
俺の腕一本でへし折れそうな体躯。
だが、今の俺には、あの背中が、伝説の巨神兵よりも巨大で頼もしく見えた。
「おい、野郎ども!」
俺は腹の底から声を張り上げた。
喉が張り裂けんばかりの咆哮。
「この勝利をくれたのは誰だ!」
「軍師殿だァァッ!」
「俺たちの命を拾ってくれたのは誰だ!」
「クロト軍師だァァッ!」
雪原に、歓喜の雄叫びが爆発した。
誰からともなく、剣を、槍を、盾を掲げる。
それは、ガルガディア軍という、実力のみを崇拝する戦闘集団が、新たな英雄を受け入れた瞬間だった。
俺は見た。
あの頑固一徹なガルド将軍が、軍師殿の肩を叩き、子供のように笑っている姿を。
俺は確信する。
この国は変わる。
あの青い瞳の軍師がいる限り、我らは負けない。
最強の鉄血国家に、最強の頭脳が加わったのだ。
寒風など、もう誰も感じていなかった。
俺たちの胸には、熱い火が灯っていたのだから。
◇
【Side:元勇者カイルの視点】
王都アルカディア、貧民街のさらに奥。
廃棄された魔石鉱山の跡地には、鼻が曲がりそうな汚臭と、淀んだ空気が充満していた。
「ぐ、ぅぅ……ッ! 重てぇ……!」
俺、カイルは、泥まみれになりながら巨大な木箱を背負っていた。
中に入っているのは、精製に失敗した産業廃棄物――高濃度の汚染魔石だ。
防護服もなしに触れれば、肌がただれ、魔力酔いを引き起こす危険物。
「おい、さっさと歩けよ新人! 日が暮れるぞ!」
背後から、現場監督の男が鞭を鳴らす。
ピシャリ、という音とともに、俺の背中に灼熱の痛みが走った。
「あぐッ!? や、やめろ……俺は勇者だぞ……Sランク冒険者だぞ……!」
「ハンッ! 今はただの借金まみれの奴隷だろうが。ほら、足が止まってるぞ!」
再び鞭が飛ぶ。
痛い。痛い痛い痛い。
俺は泥の中に膝をついた。
かつてはドラゴンのブレスを受けても平気だった体が、たかが革鞭の一撃で悲鳴を上げている。
足の骨折は治りきっておらず、歩くたびに激痛が脳天を突き抜ける。
「カイル……大丈夫? 私、もう無理……」
隣で、リナがへたり込んでいた。
彼女の背中にも、同じ木箱が括り付けられている。
かつての美しい金髪は見る影もなく、肌は土気色になり、目の下には濃い隈が刻まれている。
魔法使いとしての繊細な指は、ひび割れ、血が滲んでいた。
「くそっ……なんでだ……なんでこんなことに……」
俺たちは、路地裏で怪しい仲介屋に騙された。
クロトを襲えと唆され、失敗した後、奴らは掌を返した。
『失敗の落とし前』として、違法な廃棄物処理場に売り飛ばされたのだ。
借金は減るどころか、斡旋料だの食費だのを引かれ、雪だるま式に増えている。
「休憩終わりだ! 立て!」
監督がリナの髪を掴んで引きずり起こす。
リナが悲鳴を上げるが、抵抗する力もない。
「やめろ……リナに触るな……!」
俺は立ち上がろうとして、足元の石に躓き、無様に顔から転んだ。
泥水が口に入る。
砂利の味がした。
惨めだ。
あまりにも惨めで、涙すら出てこない。
あの時。
クロトがいた時。
重い荷物はすべてあいつが持っていた。
汚い仕事はすべてあいつが片付けていた。
俺たちはただ、綺麗な剣を振り回し、美味しいところだけを持っていけばよかった。
「……クロト」
憎い。
俺をこんな目に合わせ、自分だけは高飛びしたあいつが憎い。
だが、それ以上に。
(助けてくれ……クロト……)
心の奥底で、あいつの名前を呼んでしまう自分が、何よりも憎かった。
「へいへい、運んで来たか」
処理場の奥から、黒いローブを着た男が現れた。
俺たちが運んできた箱の中身を確認し、ニヤリと笑う。
その箱の中身は、ただのゴミ魔石じゃなかった。
ゴミに紛れて、微かに青く発光する、奇妙な結晶体が混ざっていた。
「上出来だ。……この『古代種』の欠片は、高く売れるからな」
男が呟く言葉の意味は、俺には分からなかった。
ただ、その青い光が、どこか不吉で、そしてクロトの冷たい瞳の色に似ている気がして、俺は身震いをした。
「ほら、さっさと次の分を持ってこい! ノルマ達成しなきゃ飯抜きだぞ!」
監督の罵声が飛ぶ。
俺は歯を食いしばり、鉛のように重い体を起こす。
勇者の栄光は、深い泥の底に沈んでいた。
◇
北の国では、一人の英雄が誕生し、兵士たちの熱狂の中心にいた。
南の国では、一人の敗者が泥を啜り、絶望の淵に沈んでいた。
二つの運命は完全に分岐した。
だが、カイルたちが運ばされている「青い結晶」。
そして、クロトが戦場で拾った「青い結晶」。
大陸の南北で同時に現れたその不吉な輝きだけが、二人の運命がまだ完全には切れていないことを、静かに暗示していた。




