第1話:『誤差』と言われたので、スキルを切りました
地下迷宮アビス・ゲート、深層域第七階層。
そこは、地上の常識が通じない奈落の底だ。
腐敗した沼地から立ち上る紫煙は、吸い込めば肺胞を内側から溶解させ、岩陰に潜む捕食者たちは、鋼鉄の鎧など濡れた紙のように引き裂く爪牙を持っている。
本来であれば、人類が生存を許される領域ではない。
だが今、その死地において、場違いなほどの哄笑が響き渡っていた。
「オラオラオラァ! どうしたトカゲ野郎! もっと楽しませろよ!」
黄金のフルプレートアーマーに身を包んだ男、勇者カイルが、身の丈ほどもある大剣を片手で軽々と振り回している。
対峙するのは深層の主、アビス・ドラゴン。
全身を黒曜石の如き鱗に覆われた巨獣が、憤怒の咆哮とともに灼熱のブレスを吐き出した。
数千度の熱線が、直撃コースでカイルを飲み込む。
しかし。
炎がカイルの肌に触れた瞬間、まるで水滴が熱した鉄板を滑るように、陽炎となって霧散した。
「効かねえよ! 俺様の『聖なる肉体』の前じゃ、こんな温風は扇風機代わりにもなりゃしねえ!」
カイルは無造作に炎の中を突っ切ると、バックスイングで大剣を叩きつけた。
人間が片手で振るえる質量ではない。手首の関節など、遠心力だけで粉砕されてしかるべき暴挙だ。
だが、剣は吸い込まれるようにドラゴンの首筋へ走り、鱗を砕き、鮮血を噴き上げさせた。
「リナ! トドメだ! ド派手なの頼むぜ!」
「はぁい、任せてカイル! 最大火力、いっくよぉー!」
後方で杖を構えていた魔法使いの少女リナが、あどけない笑みを浮かべる。
彼女の周囲に、大気が悲鳴を上げるほどの魔力が渦巻いた。
狭い洞窟内だ。前衛にはカイルがいる。
常識的な魔術師ならば、味方を巻き込むことを恐れて範囲魔法など選択しない。
けれど、彼女は躊躇なく破滅の言葉を紡ぐ。
極大爆裂魔法、メガ・エクスプロージョン。
「消し飛んじゃえッ!」
解き放たれた紅蓮の奔流が、カイルごとドラゴンを飲み込んだ。
鼓膜を破壊するほどの轟音。
洞窟全体が揺れ、天井から鍾乳石が雨のように降り注ぐ。
土煙が晴れた後。
そこには、首を失って崩れ落ちたドラゴンの巨体と――傷ひとつなく、煤汚れひとつついていないカイルの姿があった。
「へへッ、さっすがリナ! いい火力だ!」
「でしょ? 経験値もたっぷり入ったし、私ってば最強!」
二人はハイタッチを交わし、戦利品であるドラゴンの牙を荒っぽく剥ぎ取り始めた。
その光景は、あまりにも不自然で、歪だった。
まるで、世界の物理法則が彼らだけを避けて通っているかのような。
その理由を知る者は、戦場の隅にある岩陰に一人だけいた。
背には自分の体重ほどの巨大なバックパック。腰には予備のポーションや修理道具を吊り下げた、地味な身なりの青年。
Sランクパーティ『暁の光』の荷物持ち兼案内人、クロトである。
クロトは、岩に背を預けてうずくまり、胸元を掻きむしるように押さえていた。
心臓が、早鐘を打っている。
血管の中を、沸騰した鉛が流れているような感覚。
――ガッ、ギギギ、グゥッ。
クロトの喉の奥から、押し殺したような呻き声が漏れる。
熱い。全身の皮膚が内側から焼けるようだ。
重い。手首が万力で締め上げられるような激痛が走る。
カイルが受けるはずだった数千度の熱量。
大剣を振るった際の強烈な反動。
リナの爆裂魔法による衝撃波。
それら全てが、クロトの固有スキル【チュートリアル管理】を通じて、彼自身の肉体へと転嫁され、そして霧散していく。
システムが作動している。
クロトの体内にある魔力回路が、彼らの受けるべき「死」を肩代わりし、無理やり中和しているのだ。
(……ぐ、ぅ……処理、完了……)
クロトは震える手でポーションの瓶を開け、一気に煽った。
安物の回復薬特有の苦味が、口の中に広がる鉄錆のような血の味と混ざり合う。
視界の端には、無傷で笑い合うカイルたちの姿。
彼らは知らない。
自分たちが踏みしめている「安全な大地」が、一人の人間の寿命と犠牲の上に成り立っていることを。
◇
戦闘が終わり、一行はダンジョンの片隅にある安全地帯で野営を張ることになった。
結界石によって魔物の侵入が防がれたその空間だけは、奇妙なほど平和で、そして残酷な空気が流れていた。
パチパチと焚き火が爆ぜる音がする。
香ばしい肉の焼ける匂いが鼻腔をくすぐる。
カイルが持ち込んだ、王都でも最高級とされる霜降り肉だ。
「ん~っ! やっぱ運動の後の肉は最高ね!」
「おうよ! この肉、一切れで金貨一枚分だからな。精のつき方が違うぜ」
カイルとリナは、脂の滴る肉をワインで流し込みながら、下品な咀嚼音を立てていた。
クロトは少し離れた場所で、黙々と彼らの装備の手入れをしていた。
カイルが乱雑に扱った聖剣の刃こぼれを修復し、リナが泥だらけにしたローブの汚れを浄化魔法で落とす。
それは本来、専門の職人が数日かけて行う作業だが、ここにはクロトしかいない。
「おい、クロト」
不意に、カイルが投げ捨てるように声をかけてきた。
口元をワインで汚したまま、彼は酔眼でこちらを睨んでいる。
「なんだ」
「なんだじゃねえよ。お前さ、今日の戦闘、何してた?」
クロトは手を止めず、淡々と答える。
「後方支援だ。戦況を監視し、君たちの動きに合わせてポーションの調合と、周辺警戒を行っていた」
「ハッ! 警戒だ? 笑わせんな」
カイルが鼻で笑い、飲み干したワインの空き瓶をクロトの足元に放り投げた。
ガラスの砕ける音が、静かな空間に突き刺さる。
「俺はな、気づいちまったんだよ。お前のそのチマチマした仕事、意味ねえなって」
「……意味がない?」
「そうだろ? 俺には生まれつきの『聖なる肉体』がある。リナには『魔力増大』の才能がある。お前がいなくても、俺たちは無敵なんだよ。むしろ、お前がいるせいで経験値の入りが悪いんじゃねえか?」
リナもまた、クスクスと笑いながら同意する。
「そうよねぇ。クロトってば、いつまで経ってもレベル1のままだし。正直、Sランクパーティに寄生してるって噂されてるの、恥ずかしいんだよね」
レベル1。
その言葉が、クロトの胸を鋭く抉った。
彼はそっと、自身のステータス画面を脳内で展開する。
そこには確かに【レベル:1】と刻まれている。
なぜ上がらないのか。
それは才能がないからではない。
スキルの維持コストだ。
彼らのダメージを吸収し、物理法則を歪めるための膨大な魔力リソースとして、クロトが得るはずの全ての経験値が吸い取られ、相殺されていたからだ。
この三年間、死ぬほどの激痛に耐え、血を吐きながら彼らを支え続けてきた代償が、この『レベル1』という烙印だった。
「で、だ。結論を言うぞ」
カイルが立ち上がり、焚き火の光を背に受けて見下ろしてきた。
その影が、クロトの上に長く伸びる。
「お前、もう要らねえわ。クビだ」
「……それは、パーティからの追放ということか?」
「おうよ。報酬の頭割りも勿体ねえしな。その分の金を、もっとマシな荷物持ちか、あるいは俺たちの装備代に回したほうが建設的だろ?」
カイルは懐から革袋を取り出し、地面に放った。
ジャラリと中身の硬貨が鳴る。
「手切れ金だ。ここまでついてきた苦労賃くらいはくれてやるよ。感謝しろよ?」
クロトは、泥にまみれた革袋を拾おうとはしなかった。
代わりに、ゆっくりと立ち上がり、バックパックを背負い直す。
その動作には、一切の躊躇も未練もなかった。
「わかった。合意しよう」
あまりにあっさりとした返答に、カイルは拍子抜けしたような顔をした後、すぐに勝ち誇った笑みを浮かべた。
必死に縋り付いてくると思っていたのだろう。
だが、クロトにそんな感情は微塵も残っていなかった。
あるのは、長い間背負い続けてきた重荷を、ようやく下ろせるという安堵感だけだった。
「今日でちょうど三年だ。契約期間も終わる」
「あん? 契約だか何だか知らねえが、とっとと消えろよ」
クロトは彼らの顔を最後に見る。
慢心と、無知と、傲慢に歪んだ顔。
それはかつて、故郷の村を出た時に見た、希望に燃えていた若者たちの顔とは似ても似つかないものだった。
「最後に一つだけ、忠告しておく」
「あ? 負け惜しみか?」
「ここは現実だ。痛みは人を殺すし、剣は重い。そして、君たちが思っているほど、世界は優しくない」
「はっ! 詩人かよ。ダッセェこと言ってねえで消えろ!」
罵声を背に、クロトは結界の外へと歩き出す。
背後からは、「なんだあいつ」「偉そうに」「せいぜい野垂れ死ねよ!」という嘲笑が浴びせられた。
闇の中へ数歩進む。
焚き火の暖かさが届かなくなり、肌を刺す冷気が強まる。
クロトは立ち止まり、虚空に指を走らせた。
展開されたのは、彼だけに見える【チュートリアル管理】の操作ウィンドウ。
そこには、三年間絶え間なく動き続けていた、緑色の稼働状況が表示されている。
『対象:勇者パーティ【暁の光】』
『状態:保護中(被ダメージ・負荷の99%を術者へ転送)』
『消費コスト:獲得経験値の100%』
「……もう、十分だろ」
クロトは呟く。
この身を削る契約も、ここで終わりだ。
彼はウィンドウの最下部にある【対象の登録解除】ボタンに指をかけた。
「さようなら。……これからは、自分の力で生きてくれ」
指先が、光の粒子に触れる。
――ピッ。
脳内にシステム音が響くと同時に、ウィンドウの文字が赤く変色した。
『警告:対象への保護リンクを切断します』
『以降、対象は通常の物理法則の適用となります』
『術者への経験値徴収を停止。レベルアップ機能が解放されました』
瞬間。
背後の安全地帯から流れてきていた温かな魔力の繋がりが、ふっと途絶えた。
重苦しかった肩の荷が下り、鉛のように重かった四肢に、新しい血液が巡り始める感覚。
それが、呪縛からの解放だった。
「……あ、れ?」
遠くで、リナの間の抜けた声が聞こえた。
「なんか、急に体が重いんだけど……?」
「あちッ!? なんだこれ、焚き火が爆ぜて……火傷したぞ!?」
カイルの驚愕の声が続く。
クロトはもう振り返らなかった。
ただ、自分の身体を確認するように、何度も拳を握りしめる。
レベルは1のままだ。
だが、今の身体は驚くほど軽かった。
誰かの痛みを背負う必要のない、自分だけの身体。
そしてこれからは、戦えば戦うほど、正当に強くなれるのだ。
「さて……まずは生き残らないとな」
クロトは闇の奥を見据える。
その瞳は、深層の暗闇よりも深く、鋭く澄んでいた。
三年間、レベル1のままでSランクの死線に立ち続け、あらゆる攻撃を見切ってきた経験。
それだけが、今の彼に残された唯一の武器。
最弱のステータスと、最強の経験値を抱え、クロトの本当の冒険が始まろうとしていた。




