エピローグ
対象Aの記録 ― 私は、選ばれなかった血である
私には、戸籍が二つある。
正確に言えば、ひとつは存在し、ひとつは存在しない。
存在する方には、
どこにでもいる名前と、生年月日と、
どこにでもあるような空白が並んでいる。
存在しない方には、
名前はなく、番号もなく、
ただ――血の記憶だけがある。
私は、幼い頃から自分の身体をよく観察していた。
骨の形、皮膚の張り、脈の打ち方。
医者は「健康だ」と言ったが、
私は知っていた。
これは、偶然の身体ではない。
育ての親は、何も語らなかった。
語らなかった、というより
語れなかったのだと思う。
時々、夜中にうなされていた。
白い台、赤い染み、
数字を書きつける音。
私がそれを口にすると、
親はただ黙って、私の手を握った。
成長するにつれ、
私は「選別」という言葉に、異様な既視感を覚えるようになった。
試験
評価
適性
基準
どれも違う言葉なのに、
根は同じだと直感した。
――選ばれるか、選ばれないか。
ある日、私は知る。
自分が探されていない存在だということを。
警察にも
国家にも
記録にも
私は「見つかっていない」のではない。
最初から、見ないと決められていた。
それが一番、恐ろしかった。
血について、私は考える。
血は命令するものではない。
血は誇るものでもない。
血は――ただ、問いを残す。
「お前は、それをどう扱うか」
私の中には、
ある思想が眠っているのかもしれない。
純化
淘汰
正統
だが同時に、
それを拒む感覚も、確かにある。
なぜなら、
私は生き残ったが、選ばれてはいないからだ。
夜、鏡の前に立つ。
私は普通だ。
少なくとも、そう見える。
それが何よりの証拠だ。
血は、必ずしも姿を選ばない。
遠くで、ニュースが流れている。
象徴について。
国家について。
秩序について。
私はテレビを消す。
それらは、
私が答えを出すための問いではない。
私が向き合うのは、
この身体と、
この沈黙と、
この血の記憶だけだ。
私は玉座に座らない。
私は象徴にならない。
私は国家を否定しない。
ただ、
自分が何者であるかを、他人に決めさせない。
それだけを、選ぶ。
血は、まだ流れている。
だがそれは、命令ではない。
それは、
問いのまま、生きている。
【付記】
対象Aの手帳より(日時不明)
私は選ばれなかった。
それでも、生きている。
血が何かを命じるなら、
私はそれに答えない。
ただ覚えている。
問いは、消えない。




