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叫び出したい衝動をグッと抑えたロファーだった。
なぜ、そんな荒唐無稽な、わけの判らない話をするんだ? シス、あんたは俺の親代わりで、ずっと信じていたのに――罵倒し、詰り、問い質したい。
だがロファーは身動きできない。魔導術を掛けられたのだと悟り、更に怒りがこみ上げる。が、常人のロファーにはどうすることもできない。
「父君と伯父上があなたにかけた封印も、わたしがこの家に張った結界も、成就の時を控え、かなり力が弱まった」
あなたも気が付いているはずだ。今まで見えなかったものがだんだん見えるようになり、知らなかったことがいつの間にか知っていることに変わっている。
そんなことが、今までだって何度もあったことだろう。これから、更にその速度は早まる。どんどんあなたに掛けられた封印は解かれていく。
そしてこの家の結界はもはや役目をはたしていない。が、結界の存在に気が付いたジゼェーラ様が強化なさった。少なくとも夏至の日までは持たせるおつもりなのだ。そこに見える魔導術で隠された扉はジゼェーラ様の本拠に通じていると推測した。いざとなれば瞬時にあなたをご自分の結界に封じ込めることをお考えなのだろう。
三年余前、ジゼェーラ様がこの街にいらした時、止まっていた歯車がゆっくりと動き出した。
そしてすべてが顕され、示されるとき、あなたは選択しなければならない。その選択が、あなたにとって幸いなものであることを僭越ながらわたしと妻は願っている。
ロハンデルト様、いや、ロファー、おまえがわたしたち夫婦にとって、いつまでも大切な愛し子であることは変わらない。二十二年もの間、陰に日向に、あなたを守り慈しんできた。そしてこれからもわたしたちは変わらずあなたをお守りする。それを忘れずにいて欲しい。
預かっていた剣を今こそ返そう。そのため今日はここに来た。選択の日にこれをどうするかはあなた次第だ。
魔導士ブランシスはゆっくりと立ち上がると、宙から一振りの剣を取り出し、それをベッドに置いた。
「では帰るとする」
≪今宵語られた言葉は忘れ、然るべき時には思い出せ≫
ブランシスの姿が消えた。
椅子から落ちそうになったロファーが驚いて体勢を整える。何をしていたんだったっけ? 確か、グレインの店で大騒ぎして、レオンと一緒にそこまで来た。レオンは飲み足らなそうな顔をしていた。なんだか記憶がはっきりしない。飲み過ぎたかな?……
ふと見ると、ベッドに豪奢な装飾が施された剣が置かれている。先日、ロファーを守る結界を作るため、ジゼルが自分の腕に傷をつけた剣とよく似ている。
でも、あの剣は銀色だった。だけどこれは黄金色だ。どちらにしろ、ジゼルの持ち物だろう。と、言うことは、あのドアを使ってジゼルはこの部屋に来たのだろうか?
だとしたら、留守だったと怒っているだろう。まぁいいや、明日ご機嫌伺いに行こう。今夜はもう眠い……
翌日、店を開ける前に例のドアを叩くと、『まだ寝ている』とジゼルの声がし、ドアが開いた。来たついでにミルクティーでも飲む? と欠伸を噛み殺しながらジゼルが言う。
「それにしても、かなり昨夜はお楽しみだったようだね。酒の匂いがプンプンだ」
「レオンたちに誘われて、久しぶりにグレインの店に行ってきた」
ジゼルの銀色の髪がところどころチラチラと、虹色に輝くのを眺めながらロファーが答えた。
「妖精さんは酒の匂いが嫌いかな? 少しも俺に近づかない」
「ん……ロファーの昨日のご乱行を逐一わたしにご報告中。だからわたしの耳元から離れない」
「ご乱行、って、何を?」
例えば、とジゼルが言う。
「桃色の服のコがロファーに後ろから抱き着いて、ほっぺたにキスした、とか?」
「あ、あれはゴグの彼女だよ。ゴグと一緒に来てて、ミーナの件でお礼を言われたんだ。魔導士様にもよろしく、って」
「淡いブルーの服のコは?」
「淡いブルー……そんなコいたっけ?」
「いたんじゃない?」
どうぞ、ジゼルがティーカップをロファーの前に置く。
「じゃあ、小花模様の服のコは?」
ジゼルがくすくす笑いを始め、ロファーはやっと揶揄われていることに気が付いた。
「おまえ、桃色の服って、カマ掛けたな?」
「ほんと、あなたは素直だね。わたしに知られたくない人の服装をわたしが言っていたら、素直に白状しそうだね」
「おまえに知られたくない人なんか、いないから心配ない」
「で、用もないのにここに来た? わたしに会いたくなったかな?」
それを否定するわけにもいかず『まぁな』とロファーは答えた。
「昨日、帰ったらベッドに剣が置いてあってさ。ジゼルが来たのかな、と思ったんだよ」
「剣? どちらにしろわたしは行っていない。ロファーに会いたければ、ロファーに来てもらう」
どんな剣だ? と問うジゼルに、こないだジゼルが持ってた剣にそっくりで金色だったとロファーが答える。
「ふーーーん」
ジゼルの答えはそっけない。
「わたしの剣ではない。クローゼットにでもしまっておくといい」
そしてテーブルの花瓶からルリハコベを一本抜きとると
「クローゼットに入れる前にこの花を糸でその剣に縛り付けておいて」
念のためにだ、心配ないとジゼルは言った。
そう言えば、とジゼルが言う。
「まだ、ホミンのところに行った時の痛みが抜けない」
どうしようもなく痛むと言うわけじゃないけれど、胸だけがシクシクと痛み、しかもなんだか腫れてきた気もする。ほかは全く痛まないのに、こんなに長引くものだろうか。
「癒療魔導書でも調べたけれど、該当するものが見つけられなかった」
一度魔導士学校に行って癒術に長けた者に診て貰うかもしれない。
「うん、そのほうがいいな」
話を聞いているうちにロファーも顔色を変える。いつもの『もう死んでしまうかも』がない上に、魔導士学校に行ってくる、なんてジゼルが言うのは尋常じゃない。冷静さが却って心配を呼び起こす。
「早めに行くんだよ」
必ず行くんだよ、と言いおいてロファーは自分の場所に帰って行った。
それから数日が経ち、ロファーの仕事も落ち着きを取り戻し、街も落ち着きを取り戻した。
頭を抱えていた訴状の案件も期日前には終わり、クライアントの満足を得た。マーシャの恋文も納得の出来栄えで、思いが通じたとマーシャは大喜びだった。
心配していたジゼルの体調も『どこも悪くないと言われた』と、魔導士学校の癒術者に言われた、とジゼルからカケスの使いが来た。急激に成長しているから、その反動だろう。しばらくすれば治まるらしい、と手紙にあった。
ジゼルの家に直結しているあのドアを使ってジゼルがロファーの家に来ることはなかった。
あの日、ドアを付けたから、と言うジゼルに、なぜそんな勝手なことを、とロファーが抗議すると、
「うん、家主の同意もなくドアを付けるなんて、わたしとて気が引けた」
そう言ったジゼルは確かに後ろめたそうだったが、
「でもロファー、これでいつでも好きな時に、あなたはわたしのところに来られるようになった」
と言う。
おまえが便利に俺を呼ぶためじゃないのかい? 呆れるロファーに
「わたしがこのドアを通ることはない」
きっぱり宣言し、今のところジゼルはロファーの家に姿を見せない。
ロファーも剣の件で使った時、なるほど便利だと思ったが、それを認めるのもなんだかシャクだった。
忙しい仕事の合間や一日の終わりに、毎日のようにジゼルを思い浮かべ会いたい気持ちを募らせるロファーだったが、用事もないのに行けば『何の用だ?』と言われそうだし、『わたしの顔が見たくなったか?』とジゼルがニンマリするのは負けた気がする。
きっとジゼルも同じだろう、と勝手に決めつけ、呼ばれるまで行くものか、と思っていた。
だから朝の微睡の中、けたたましい音でドアが叩かれた時、『勝った』と一瞬思った。が、次に聞こえた叫び声に、ベッドから飛び起きた。
「助けて、ロファー」
叫びながらドアを叩き続けている。
慌ててドアを開けると泣きじゃくりながらジゼルがしがみ付いてくる。
「ロファー、ベッドが血の海だ。今度こそ本当にわたし、死んでしまうかも」
「ベッドが?」
ロファーがジゼルを抱えながら部屋に入ると後ろでドアがぱたりと締まる。
しがみ付くジゼルを引き離せないまま、寝室に行くと、確かにベッドは血にまみれている。
「怪我は?」
ない、と答えるジゼル、身体を見せてみろと、なんとかロファーが引き離す。服もやっぱり血に染まっている。だけど、これは……
「おまえ……」
身体から力が抜けたロファーがしゃがみ込む。
「おまえ、本当に、何も判らないのか?」
涙目のジゼルの不安げな顔を見ると、どうやらなんにも教わってないようだ。まったく、魔導士って面倒だな、と内心思う。
「大丈夫、病気じゃないし、心配ない」
すぐバスの準備をするから、体を洗って服を着替えろ、その間にベッドや床をきれいにしておくから……
何とか宥めすかしバスルームに追いやって、ベッドを綺麗にし、床を拭き終え、例のドアを使って自宅に戻る。そして自分も汚れた服を着替え、ジゼルの部屋に戻ってきた。
さて困ったとロファーが頭を抱え始める頃、外に通じるドアの呼び鈴が鳴った。まったくこんな朝早く、しかもこんな時に誰だ、と顰めっ面でドアを開ける。
「ジェシカ!」
立っていたのはジェシカだった。
「出歩いたりして大丈夫なのか?」
ジェシカは亭主のマグの遺体を発見して以来、寝込んでいた。
「魔導士様のお薬ですごく楽になったの。出歩けるようにもなったわ」
心配かけたわね、と微笑むジェシカの後ろで、マーシャが馬車の荷台からミルク瓶を降ろしているのが見えた。
中で待ってて、とジェシカを部屋に入れ、ロファーはマーシャの手伝いに行く。
「おはよう、ロファー。魔導士様は?」
「マーシャ、おはよう。俺が運ぶよ」
歩けるようになったから魔導士様のところにお礼に伺いたい、馬車を出すから一緒に行って……頼まれたマーシャがジェシカを連れてきたのだ。馬車を扱うのも、馬に乗るのも、ジェシカにはまだ無理そうだった。配達の時なら、お寝坊の魔導士様も必ず出てきてくださるから……ミルク配達の時間に、マーシャが馬車を走らせてきた。
そうかそうか、何しろジェシカが元気になって、俺も嬉しいよ。そう言いながらロファーは二人に頼み込んだ。
「いいところに来てくれた。俺ではお手上げだ。助けてくれ」




