15
翌朝、ジゼルよりも先に起き出したロファーが馬小屋の手入れに行くと、いつもならロファーを威嚇してサッフォに怒られるシンザンが、サッフォが止める前に威嚇をやめ『ヒヒヒン』と笑った。サッフォは目を丸くしてロファーを見ている。
「おーや、その頬っぺた、ジゼルに叩かれたのかい?」
とジュリも笑う。
「くっきり手形が付いている。とうとうジゼルはアンタに印を付けたんだね」
どういう意味だ、と聞きたかったが馬となんか話すもンか、ジュリを無視し続けるロファーにジュリは
「これで世界中のどこにいようとジゼルはアンタを見つけるよ」
と、ロファーの聞きたかったことをさらりと言った。
それならそれでいいや、と思いながら、鶏小屋に回り、卵を拾って勝手口からキッチンに戻れば、起き出したジゼルがミルクを温めていた。ロファーを見るとニッコリ笑ったが、すぐにクスクス笑いに変わった。
「その顔はどうした?」
「おまえが昨日叩いたんじゃないか」
「わたしが? ロファーの顔を? ありえない」
勘弁してくれよ、愚痴を言いたいロファーだったが、言っても仕方がないと
「で、朝飯は何にする?」
と話題を変えた。
卵を茹でて潰し、きゅうり・タマネギと一緒に調味料で和える。それを薄くスライスしたパンに挟めば朝食の出来上がりだ。もちろんたっぷりのミルクティーは欠かせない。
一口食べるとニッコリする。そして『美味しい』と言う。何か食べるときのジゼルはいつもそうだ。お気に召さない時はそのニッコリと『美味しい』がない。今日はお気に召したようでニッコリ笑って美味しいと言った。ジゼルはいつもと変わらない。
昨夜あれから何度もキスをせがむジゼルに
「これ以上したら唇が腫れてしまうよ」
とロファーが言えば
「それは困る」
真顔でジゼルが答えた。
明日は難しい呪文を使わなくてはならないかもしれない、腫れた唇でしくじる訳にはいかない。
「ロファーのおかげで睡眠が中断された。いい迷惑だ。もう寝る」
と言ってさっさとベッドに潜り込んでしまった。
「ロファーも寝ろ。寝不足なぞ許さない」
はいはい、と従ってベッドに潜り込めば、胸元に顔を寄せたジゼルが『ふふふ』と笑う。
「ロファー、大好き」
俺もだよ、と言うロファーの声を聞かずにジゼルはすぐに眠ったようだ。その髪を撫でながら物思いに耽っていたが、いつの間にかロファーも眠っていた。
いつもと変わらないジゼルに肩透かしを食らったような気分だ。あの程度のことは、ジゼルにとっては大した意味がないのだと思ってしまう。ロファーには大きな出来事だったのに――まぁ、ジゼルらしいと言えばジゼルらしいか、と納得するしかない。
ラベンダーオイルを入れてバスを使うと、ジゼルは銀色のローブに着替えた。フードが付いていて、縁は深紅で彩られている。ゆったりとしたシルエットで隠されているが、歩けば腰に下げられた剣がチラリと見える。
「出かけよう。ヤツが待っている」
ヤツはさっきからこちらを見ている。大人になった妖精が強化した結界を、ヤツは先日のように見渡すことができず焦れている。
「それで、どこに行く? ヤツはどこで待っている?」
緊張の色を隠せないロファーが問う。
「剣を持参するほどだ。そこはかなり危険なんだろう?」
「剣はただの形式だ。でも、うん、少しの準備が必要だな」
そう言うとジゼルが暖炉の上を指さした。見るとホミンのペンダントを包んだタオルが置いてある。
「そのペンダントにわたしは触れられない。だが常人のロファーなら触ってもなんの問題もない。タオルから出して、あなたの首に掛けておいて。持って行くより、そのほうが簡単」
なぜ触れられない? と訊きたかったが、ジゼルが答えると思えない。黙ってペンダントを取り出して、首に下げた。
「ほう、似合うじゃないか」
ジゼルが笑う。
「女物のペンダントが、よく似合ってるよ。ロファー、なんだったらあなたが女になる?」
服の中に隠して、と言いながらジゼルは寝室のドアを開ける。文句を言いたいロファーだったが、ペンダントを服の中に滑り込ませ、慌ててあとを追った。
家の外に通じる居間のドアに向かう間にジゼルは二回指を鳴らした。ドアを開けるとシンザンとサッフォが到着している。ジゼルは二頭にそれぞれ、頭から尻尾の先までなぞるように掌を翳し、『これで良し』と言った。
そして振り返りロファーを見ると『まぁ、いいか』と言ってシンザンに乗り、すぐ速歩をさせて行ってしまう。やっぱりロファーは急いでサッフォに乗り、後を追うことになる。
『人の道』の終わり辺りでジゼルがシンザンを返し、ロファーに近づいた。サッフォもジゼルに倣って、シンザンに近寄り、腕を伸ばしたジゼルがロファーに触れる距離を取った。
「すまなかった」
と言ってジゼルがロファーの頬を撫でる。
「これで付いている手形は、誰にも見えなくなった」
顔に真っ赤な手形を付けて街を行けば、何を言われることかと心配していたロファーがほっと胸をなでおろす。でもさ、『見えなくなった』ってことは、消えてないってことだよな? なんとなく不満を感じたロファーだ。でも、まぁいいか。
「ご褒美は?」
ジゼルがロファーを覗き込む。ニッコリと笑むジゼルについ釣られて、ロファーはジゼルの肩に腕を回し、(シンザンが怒るかな?)と思いながらジゼルにキスすると、怒ったのはサッフォだった。二人を引き離すように、それでも二人が馬から落ちることがないように足踏みを始めてしまった。
「さっさと行けとサッフォが怒っている」
笑いながらジゼルが言った。
「キスは余計だったようだね」
だけどこれで準備はできた。結界から出てみようじゃないか。
二人と二頭がすっかりジゼルの結界から出てしまうと、辺りが薄暗くなった。太陽を見ると東の空の中ほどにある。雲はない。本当ならばもっと明るいはずだ。
怖がってシンザンが少し暴れたが、ジゼルは巧みに手綱を操って宥めた。
「ふぅん、思った以上に強い力を持っているようだね。もうわたしたちを包み込んでしまった」
事も無げにジゼルが言う。
「あちらがお出ましになることは、なさそうだ。睨み付けているばかりで意気地がない」
仕方ない、敵陣に乗り込むか。ジゼルが怯えるシンザンの手綱を引いた。
目的の屋敷の門をくぐり、馬を降りた。以前ジゼルが足を止め、ロファーが街一番の金持ちと言った、あの屋敷だ。
おいて行かれるシンザンが『ヒヒン』と悲しげに鳴けば、サッフォがカンっと音を立てて蹄を鳴らす。情けないシンザンを叱っているのだ。クスッと笑って『任せたよ、サッフォ』とジゼルがサッフォの馬面を撫でた。
玄関ノッカーを使うと、程なくメイドが顔を見せた。
「魔導士様がお屋敷の主人に会いたいと仰っている」
こんなとき、用件を伝え交渉するのはロファーの役目と決まっている。
ジゼルとロファーを建屋の中に入れてから、『お待ちください』とメイドは下がっていった。魔導士様を外で待たせては無礼にあたると思ったのだろう。こちらにとっては好都合だ。拒否された場合、無理に押し入る手間が省けた。
なるほど、街一番の金持ちの屋敷だけはある。広い玄関ホールにはいくつかの彫刻が置かれ、壁には大きな絵画が掛けられている。大理石の床は磨きあげられて塵一つ落ちていない。
隅に置かれたベンチやキャビネットなどの家具も意匠をこらしたものばかり、高い天井には豪奢なシャンデリアが吊るされている。高さのある外観からは判らなかったが、この屋敷は一階しかない。
壁の右に狭い廊下が口を開けているのは使用人たちの部屋へと続き、奥の左側に広い廊下が見えているのは主人の家族の居室や客間、遊戯室などに続いていると推測できる。やがて主人らしき男が、その広い廊下から姿を現した。
「魔導士様がどのようなご用件で?」
ムッとした表情で主人が問う。例によって対応はロファーだ。
「この屋敷にはあなたのご子息もお住まいと聞いているが、それはまことか? と魔導士様はお尋ねだ」
「これは異なことを」
答えた主の声は心なしか震えている。
「息子は病で臥せっているが、我が妻が身を挺して看護にあたっておる。もちろんこの屋敷でだ」
これにはジゼルが反応した。
「なるほど……では会わせていただこう」
主人が驚くのを気にもせず、ジゼルは案内もなしに屋敷の中へと進んでいく。
「お待ちください、いくら魔導士様と言えど、狼藉は許されませんよ」
主人が声を荒げてジゼルを制しようとするが、ジゼルに触れることすらできずに弾き飛ばされた。メイドの悲鳴が響き、主人の怒号が続く。騒ぎを聞きつけた数人がばらばらと集まり、
「魔導士様をお止しろ」
と叫ぶ主人に従うが、誰一人としてジゼルに触れることすらできない。
よそ見することなく、顔色一つ変えないままジゼルは廊下を進んでいく。それにロファーが従っている。そしてそのあとを追いながら
「おやめください、おやめください」
うわ言のように言い続ける主人と、どうしたらよいのか判らずに主人を取り囲む使用人たちが続いた。
歩みを止めて『ここだな』とジゼルが言う。ヒッと主人が小さく悲鳴を上げ、腰を抜かした。
「お許しください。子を思う親の心を察し、どうぞお目零しください」
膝をつき、拝むように主人が請う。もはや主人は泣いている。その背を一人のメイドが庇うように抱いたが、おろおろと状況が呑み込めずにいるようだ。
ジゼルがチラリと主人を見、ふぅっと溜息をついた。
《来るな、見るな、聞くな》
瞳をオレンジ色に光らせて、ジゼルが屋敷の者たちに向かって手を払う。すると主人たちの目の前に壁が現れ、廊下が塞がれてしまった。
「魔導士様っ!!!」
主人の叫び声がこだましたようにロファーは感じたが、それは尻すぼみに消えていった。
「行くぞ、ロファー」
そう言うとジゼルはドアに向かい両手を揃えて前に出し、そして勢いよく左右に広げた。
バンっと音をたてドアが開いた。なかから薄暗い闇が姿を現し、ひたひたと広がった。




