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【原神】友を祝う美酒⑤

 張偉がちらつかせる紙には、たしかにカーヴェの名前が記されている。


 しかしよく見れば、そのすぐ上──余白だったはずの箇所には見覚えのない文言が記入されていた。


「け、『契約相手が一方的な事由により契約を破棄した場合、百万モラの違約金を支払うものとする』……なんですか、その文は⁉︎ まさか、僕がサインした後に書き足したんですか⁉︎」


「書き足したとは人聞きの悪い。あなたが読み落としただけでは?」


 細工を見破られまいとするためか、近寄るカーヴェを避けるように、張偉は契約書を持つ手をさっと引っ込めた。


「とにかく、こうして契約を交わしている以上、あなたには従っていただきます」


「め、めちゃくちゃだ! こんな無法がまかり通るものか!」


「無法? いいえ、これはれっきとした法に則ったものですよ。不服なら正義の国(フォンテーヌ)の法廷に出たっていい。契約書にあなたの署名がある限り、私の正当性は揺るがないのですから」


「あなたという人は……!」


 爪で皮膚が破れそうなほどカーヴェの拳が強く握りしめられた。


 今にして思えば、酒場で再会したのも偶然ではなかったのだろう。おそらくこの男は、最初から罠に嵌めるつもりで商談のやり直しを求めたのだ。


「全部、嘘だったんですか! 僕はあなたの言葉を信じたのに……昨日の過ちをやり直したいっていう、その気持ちは同じだと思ったのに……!」


「何が『信じたのに』だ。カーヴェさん。いや、カーヴェ。こうなったのはあんたのせいだ!」


 怒りよりも裏切られた思いで拳を震わせるカーヴェに対して、張偉の声は沸々と煮えたぎる溶岩を思わせた。怒りに赤らんだ顔で、ようやく本音を吐き出せるとばかりに敬語もかなぐり捨てている。


「私が大枚をはたいて、苦労して手に入れた土地を、あんたは地図で見ただけで切り捨てた! 私がどれだけ損をするかも考えずに! 商人として、私は手ぶらでは璃月に帰れない──この土地を有効活用するか、損失をモラで補填でもしなくちゃ、帰るわけにはいかないんだ!」


「切り捨てたわけじゃない! 僕だって……前向きな提案をしていたはずだ……」


 言い返す中、カーヴェの語気が弱まっていく。


 切り捨ててなどいない。予算についてだって、可能な範囲で安く収まるプランを提案したはずだ。


 それで不満だと言うのなら、モラが足りないと言うのなら、それは依頼人の問題だ。充分なモラもなく依頼をしようというのが間違っているのだ。カーヴェ自身に落ち度はない。


 落ち度はないのだが——


 たしかに、この商人がその後どうなるかなど考えもしなかった。


 ただひどい依頼人に出くわしたと、酒を浴びて忘れようとしていた。


 そのことが不必要にカーヴェの心に影を落とす。


「張偉さん。お辛い気持ちはわかります。でも、どうしようもないでしょう? こんなふうに百万モラなんて請求されても、僕には払えっこありません」


「払わないと言うのなら、払わずに済む選択を採れば良い」


「えっ?」


「『契約相手が一方的な事由により契約を破棄した場合、百万モラの違約金を支払うものとする』……要は契約破棄をしなければ良いんだ。あんたなら、わかるだろう?」


「……」


 たしかに違約金を回避したいなら、このまま依頼を受けたらいい……この土地の安全面に目を瞑って。


 しかしそれは……


「何を迷うことがある? あんたがデザインを引き受けさえすれば、不要な出費を避けられる。私も土地活用ができるなら不満はない。それにあんたは得た報酬で酒も買えるだろう。誰も損をしない!」


「……っ」


 そうだ。ここでゴネてもただ金を失うだけだ。土地の安全面については後で考えて、今は依頼を引き受けたらいい。デザインのラフ案を手早く描いて、その報酬で酒を買い、旅人の活躍を祝うんだ。


「わかりました、張偉さん……」


 当初の目的を思い返せば、答えは一つしかなかった。


「ふん、あんたが物分かりのいい人で良かったよ、カー──」


「やはりこの依頼は断らせていただきます。どうぞお引き取りください」


「……なっ⁉︎」


 今度は張偉が絶句する番だった。


 よほど想定外だったのか、赤らんだ顔のまま目を瞠っている張偉に、カーヴェは重ねて告げる。


「ここの安全面をクリアする方策が出ないかぎり、依頼の受理はできかねます。とても残念ではありますが」


「ばっ……ばかな、正気で言ってるのか⁉︎ 違約金は百万モラだぞ!」


「ええ、わかっていますよ」


 百万は大金だ。簡単に渡せる額じゃない。


 だがここで依頼を受けることは、自分の主義を曲げることだ。主義を曲げて手に入れた酒で、はたして心から旅人を祝えるのか?


 それはあの真っ直ぐな旅人に失礼であるし、そんな旅人との関わりの中で少なからず影響を受けた自分自身をも汚す行為だ。


 だから、一瞬だけ歯を食いしばるも、カーヴェは迷いない目を依頼人に向けた。


「百万でも二百万でも構わない。用立てするのに時間はかかりますが、お支払いします。ですからこの依頼は、これで終わりです」


「この、なんて、なんて愚かな男だ……!」


 計画が崩れたことによる動転とカーヴェへの憤りのためか、か細い罵声を呪いのように吐き出していた張偉だったが、身を翻すと駄獣の荷台に乗り込んだ。手綱を握りながらカーヴェを睨みつける。


「冗談で済むと思うなよ! 必ず払わせてやるからな!」


「……はぁ」


 自分を置いて、来た道を引き返していく駄獣を眺めながら、カーヴェは深くため息をついた。隣に乗せてもらえる状況ではないから、置き去りにされるのは別にいい。それよりも違約金百万モラが現実となってのしかかってきたことに肩を落とす。


「ああ、どうしよう……」


 アルハイゼンの言葉がふいに頭に浮かんできた。『酒のこととなると、君はとても機転が効くらしい』。それを鼻先で笑う。的外れもいいところだ。本当に機転が効くならこんな苦境に立たされてやしない。モラを払わずに済み、依頼も無事に完遂できる、最高の解決策を閃けていたことだろう。


 せいぜい自分にできるのは、悔いを残さない選択をすることくらいだ。


「そうだ。これから大変だけど、後悔はない」


 お金のことは所持品を売るなりして、なんとか工面しよう。サングマハベイ商人に連絡を取って、今月分の返済を待ってもらうよう交渉もしなければならない。彼女が聞き入れてくれるかが難点だが、やるしかない。


 工具箱を担ぎ直したカーヴェが帰路に目を向ける。


「うん?……あれは!」


 そのときカーヴェの目を引いたのは、前を行く駄獣荷車の、その真上だった。


 証悟樹の突き出した枝に、黄褐色の肢体に長い尾をくゆらせた、四足獣の姿がある。


 リシュボラン虎だ。スメールの森各地に生息する肉食動物はしなやかな動きで、眼下の獲物へと飛びかかった。


『────‼︎』


 不意に襲われた駄獣が太い唸り声をあげた。


 体格では駄獣が勝るものの、強さや獰猛さではリシュボラン虎には敵わない。激しく身をよじらせて頭上の襲撃者を振り落とすことに成功すると、それまでののんびりとした歩みとは打って変わった速度で駆け出していく。脅威に直面した駄獣の生存本能だ。


 あっという間に駄獣の姿が木々の合間に紛れ、見えなくなる。よほどの恐怖だったのだろう──だがそれも、リシュボラン虎とともに荷台から振り落とされた張偉ほどではなかったかもしれない。


「あ、ああ、あ……」


 尻餅をついた張偉には、落とした契約書を拾う余裕はおろか、地面に叩きつけられた痛みを呻く余裕すらもなかった。


 品定めするように迫ってくるリシュボラン虎から距離をとろうと後ろへ這うが、とうてい逃げ切れるわけもない。リシュボラン虎が容赦なく張偉の足に噛みついた。


「メラック‼︎」

『ピッポ!』


 張偉の悲鳴が響く中、カーヴェが走りながら叫んだ。それに機械音で応えたのは、肩に担がれている工具箱だ。外側がスライドするように変形した工具箱に、まるで目のような光点が灯っている。それは持ち主と同じく真剣な眼差しに見えた。


 工具箱──メラックから照射された光線に導かれたように、大振りの剣が空中に現れる。〝森林のレガリア〟と広く呼ばれる、樹木が緻密に絡んだような外観の両手剣だ。


 カーヴェが腕を振るうとメラックが連動して動き、次の瞬間、遠心力によって光の拘束が解かれたかのように両手剣が勢いよく投じられた。


 横回転しながら空中を翔けた両手剣は、今しも張偉を茂みへ引きずり込もうとしていたリシュボラン虎の横腹に直撃した。当たる角度が悪かったのか両手剣は獣を切り裂くことなく、地面に跳ね落ちる。それでもリシュボラン虎の口から張偉を放させるには充分だった。


 リシュボラン虎の意識を、駆けつけて来たカーヴェに向けさせることにも。


 短い咆哮をあげたリシュボラン虎がカーヴェに飛びかかる。武器を手放したカーヴェだったが、迫り来る牙を前にしても焦りはなかった。


「メラック!」


 鋭い呼びかけに工具箱もまた素早く応えた。


 メラックから照射された光線が地面に転がる両手剣を照らすや、まるで磁石で引きつけられたかのように両手剣が空中を飛んで、カーヴェの手元へ引き寄せられたのだ。


 カーヴェの腰元で神の目が瞬いた。


「スキャン!」


 カーヴェが叫ぶと同時に、両手剣が旋回した。まるでコンパスのようにカーヴェを中心とした円弧を描く。直後、その円の圏内で草元素の鮮やかな緑色が炸裂した。輝きの直撃を顔面に受けたリシュボラン虎が弾き飛ばされ、地面に転がる。


 すぐさま起き上がるリシュボラン虎だったが、相手が悪いと悟ったのか、そのまま脇の茂みへと飛び込んだ。草葉の擦れる音が遠ざかっていく。


「カ、カーヴェさん……」


「ご無事ですか、張偉さん?」


 獣が完全に逃げたことを確認すると、カーヴェは張偉へと駆け寄った。噛まれた足を押さえているが、深い傷ではないようだ。


「とにかく、スメールシティの救護施設へ行きましょう」


 肩を貸そうとしたカーヴェの目がふと、別の場所に留まった。


 先ほど張偉が落とした契約書だ。土を払いながら拾いあげる。自分の署名と、明らかに書き足された違約金のくだりを、一瞬、沈痛な面持ちで黙読してから、


「落とされましたよ。どうぞ」


 契約書を張偉へと差し出した。


「何を……何を考えてるんだ、あんたは⁉︎」


 体の痛みも忘れたように、差し出された契約書を張偉は呆然と見返した。


「なぜ私に返す? あんたにとって、それを処分する絶好の機会だったはずだ。そもそもどうして助けてくれたんだ? あんたから大金を取り立てようって人間を!」


「あなたを助けることと、契約のことは別問題です。それに──」


 少し口ごもってからカーヴェは続けた。


「あなたがおっしゃったアランナラのテーマパーク、僕はとても気に入ってるんです」


 他人に、特にアルハイゼンに見られたら甘いとなじられそうだが、知ったことではない──構わずカーヴェは本心を吐露した。


「今回依頼を断ることにはなったけれど、いつかそれを実現してほしい。百万モラに関しては、まあ、勉強代として受け入れます。そのモラがテーマパーク実現の足しになるなら、それも悪くないかなって」


「……」


 理解のできない生き物を見るかのように押し黙っていた張偉だったが、呆れたように息を吐くと、契約書を受け取った。


「まったく、愚かな人ですね。テーマパークを造るのに、百万ぽっちじゃ足しにもなりませんよ」


 ため息にビリビリと乾いた音が重なった。張偉の手によって契約書が縦に裂かれていく。


「な、何をされてるんですか⁉︎ 違約金は──」


「必要ありません。もう『一方的な事由』ではなくなりましたから」


 バラバラに裂かれた契約書だった紙を懐にしまうと、張偉は立ち上がろうと腰を浮かせた。とっさにカーヴェがそれを支える。


「カーヴェさん。こんなことを言えた義理はありませんが、またいつか依頼をさせてください」


 相変わらず不愉快そうな表情と不機嫌そうな目つきで、張偉はなんとか立ち上がった。


「璃月で資金を貯めて、いつか必ずまた伺います」


「ええ、僕もそのときを待っていますよ」


 太陽が山向こうに沈みいく中、二人はスメールシティへと歩き出した。




 そして診療所にて張偉と別れたところで、カーヴェは、酒代二万モラの件も完全にたち消えてることを思い出したのだった──

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