EPISODE1 始まりの婚約破棄
エリーゼ・コルテスは貴族である。
それもただの貴族ではない。『征服者』こと、エルナン・コルテスの末裔である。
初代コルテスはわずかな兵士でテノチティトランの帝国を破壊し、新大陸で初めての征服者となった。スペイン王室はその功績を認め、彼に征服地を褒美として与えた。
以来、コルテス家は新大陸の広大な土地を支配し、大勢の奴隷を所有し、彼らを金鉱山で働かせることで莫大な富を得た。エリーゼは、その末裔である。
「この場を以て宣言する。私はエリーゼ・コルテス侯爵令嬢との婚約を破棄すると!」
新大陸ハプスブルク帝国、またの名をハプスブルク朝アメリカ帝国には、王族や貴族、裕福な市民たちが通う大学が存在する。
その名はリオ・デ=ジャネイロ聖堂大学。元はカトリック教会が聖職者を要請するための神学校であったが、社会経済の発展に伴って次第に法学や医学、会計学や論理学といった世俗の学問も充実していった。
エリーゼたち貴族の子弟が在籍するのは、文法・修辞・論理の下級3学と数学・音楽・幾何・天文の上級4学からなる、七自由学科である。これらの教養課程を修めた学生たちがやがて貴族や高級官僚となり、広大な新大陸ハプスブルク帝国の頂点に君臨するのだ。
リオ・デ=ジャネイロ聖堂大学はこの日、そんなエリートたちを世の送り出す晴れ舞台を迎えていた。パーティーの席である者は輝かしい未来への期待を胸に、ある者は学生生活を名残惜しむように、それぞれが大学最期の日を思い思いに過ごす……。
かくもめでたい日の最後に、誰もが想像だにしなかった事件が起こった。
そう、開幕の婚約破棄宣言である。それも、ただの婚約破棄ではない。高らかに告げたのは、新大陸ハプスブルク帝国の王位継承権第一位を有する第1皇子、フェルディナント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンその人だった。
煌びやかなパーティの場は、瞬く間に祝いの場から弾劾の場へと変貌してしまった。
**
「え・・・?」
婚約破棄を告げられた少女、エリーゼ・コルテスは目を見開き、茫然と立ち尽くしていた。
エリーゼ・コルテス――新大陸ローマ帝国にいる貴族の中で、その名を知らぬ者はいない。
長く伸ばした漆黒の髪を揺らし、紺碧の瞳は強い意志を秘めている。その意志の強そうな瞳は時として鋭さを感じる事があるが、それが欠点へと繋がるかと言われればそうでもない。
むしろ、その鋭利さこそが彼女の魅力と言えた。皇太子の婚約者、つまりは次期皇妃として見るならば、威厳溢れるその姿に思いを寄せる者は間違いなくいた事だろう。
そしてコルテス家といえば帝国の2大派閥の一角である「スペイン派」の筆頭であり、わずかな兵力で現地人の新大陸を制服した英雄『征服者』こと、エルナン・コルテスの末裔だ。コルテス公爵家は新大陸の富とプランテーションで生産される商品作物の交易で栄え、新大陸には旧大陸で繰り広げられる宗教戦争を逃れて大勢の人々が移住してくるようになる。
やがてスペイン・ハプスブルク家最後の王カルロス2世が没すると、スペイン王位の継承をめぐるオーストリア・ハプスブルク家とブルボン家の争いは旧大陸全土に広がり、‟太陽王”ルイ14世との争いに敗れた神聖ローマ皇帝カール6世は新大陸へと逃れた。
大陸反抗の見果てぬ夢を果たせぬままカール6世が没すると、帝位を継いだ‟女帝”マリア・テレジアは現実路線へと転換した。
女帝はポルトガル領ブラジル遠征で領土を広げると共に、旧大陸の戦乱からは距離を置いて新大陸の開発と統治に専念する。彼女は大勢の避難民を受け入れて新大陸の開拓を推進し、またパナマ運河に代表される公共事業にも力を入れ、新大陸ハプスブルク帝国はその治世で発展を続けた。
一般家庭の家にその肖像画が飾られるほどの敬意を集めた女帝の没後、帝国は現・皇帝であるフランツ2世に受け継がれ、新大陸で最も強大な国家として君臨している。
そして第1皇子フェルディナントは次期皇帝となる身であり、教養を身につけると共に有力な貴族と縁を結ぶべく、婚約者であるエリーゼと共にリオ・デ=ジャネイロ聖堂大学で学んでいた。
しかし、そんな未来に陰りが生じようとしている。
「・・・フェルディナント様。今、なんと?」
ゆっくりと、決して言葉が震えぬようにとエリーゼが問いを投げかける。固く握られた拳は今にも皮膚を裂いて血を流してしまいそうな程に力が込められている。
フェルディナントは底冷えするような冷たい視線をエリーゼへと送り、問いに答えた。
「貴様は我が婚約者に相応しくないと判断した。貴様がアンネリーゼへ行った非道の数々、よもや言い逃れはすまい!」
その名を聞いて、エリーゼの視線が1人の女性の向けられた。
その男爵令嬢の名は、アンネリーゼ・バートリ。彼女は今、フェルディナントの隣に支えられるようにして立ち尽くしていた。
アンネリーゼは大人しそうな見た目をしていて、とても愛くるしい。亜麻色の三つ編みに、潤んだオリーブ色の目は庇護欲を駆り立てる。今にも震えて崩れ落ちそうな彼女は、鋭く意志を貫かんとするエリーゼとは対極と言えた。
もともと、政略結婚であったエリーゼとフェルディナントの間に恋愛感情は存在しない。そればかりか婚約者であったからこそ、フェルディナントはかえってエリーゼを遠ざけるようになった。
物心ついた時から、フェルディナントは常に値踏みされていた。
厳格で保守的な父フランツ2世は、フェルディナントが少しでも「皇太子らしくない」行動をとると「一族の恥だ」と怒鳴りつけて罰を与え、婚約者のエリーゼも事あるごとに「次期皇帝としての自覚を持ってください」と一部の隙も無い正論でやり込めるのが常だった。
貴族たちや大臣は自分を利用しようとするか取り入ろうとする者ばかりで、彼らの子弟である同級生たちも親に言いつけられたのか、やはり「皇太子」としてしかフェルディナントを見ようとしなかった。
ただ、アンネリーゼだけが違った。
地味で身分も低い彼女は名門貴族ばかりの大学に馴染めず、いつも教室の片隅でひっそりと本ばかり読んでいた。ある意味でフェルディナントとアンネリーゼは似た者同士であり、どちらも封建社会の犠牲者であった。
それゆえに二人が惹かれ合ったのは、むしろ必然であったかもしれない。
そんな2人の関係にエリーゼは薄々気づきつつも、やはり認めるわけにはいかなかった。それは嫉妬というより、政治的な問題となるからだ。
王の寵愛を受けた愛人が政治に口出ししたために国が傾いた例は数知れず、あるいは本人にその気が無くとも周囲がそれを利用しようとするのは避けられない。国を想い、皇室の為を想えばこそ、エリーゼはフェルディナントからアンネリーゼを引き離そうとする。
それが一層、フェルディナントをエリーゼから遠ざけた。
私人としての幸福よりも公人としての義務を優先するエリーゼはどこまでも皇妃として正しく、だからこそフェルディナントは彼女を1人の女性として愛することは出来なかった。
そしてエリーゼもまた、1人の女性として愛されることを望みはしなかった。エリーゼは皇太子フェルディナントと婚約したその日から、その身を国家に捧げるつもりであった。
ゆえに2人はどこまでも擦れ違い――ついには最悪の形で婚約破棄を迎えることとなったのである。
ノリと勢いで書いたスチームパンク×西部劇×バディムービー的な作品ですが、ご笑覧いただけると幸いです。