キャンディ
私がそのバイトに応募したのは、6月ごろだったと思います。夏休みに友達と海外旅行に行くために、どうしてもお金が必要だった私は、日給3万の文字につられ、ウェブで見つけたそのバイトに迷わず応募していました。
今だったら、きっとやめたでしょう。
どれだけ得られるものが多かったとしても、ハイリスクな賭けに勝てる自信は、今の私にはありません。私は、とても意思の弱い人間なのですから。
とにかくそのバイトというのは、地元のデパートでキャンディを売るという簡単なものでした。その日は夏のクリアランスセールも行われており、デパート内はいつもに増して活気がありました。
しかし私がキャンディを売っている場所は、セールの会場に隠れてしまうようなひっそりとした売り場で、お客さんが来ることも滅多にありませんでした。
退屈になった私は、自分が売っているキャンディの観察を始めました。キャンディはピンクや水色など様々な色があり、どれも丸くて小さくて、とてもかわいらしい見た目をしていました。
そのうちに私は、透明なケースに1粒ずつ入ったキャンディが、とてもいい匂いを放っていることに気が付きました。桃のような、蜜柑のような、林檎のような、この世にある美味しいフルーツを全て混ぜ合わせたような、甘い、幸せな香りでした。
馬鹿な私は、その時に1粒でいいからそのキャンディを口に入れてみたいと思ってしまったのです。
幸い売り場の周りには人はおらず、こちらの売り場を気にしているお客さんも1人もいませんでした。
このキャンディを口に入れたらどうなるのだろう。1度考えるとキャンディのことしか考えられなくなって、私は小さな透明の箱を1つ自分のポケットの中に入れました。途中で戻せば大丈夫だと何度も自分に言い聞かせたものの、結局私はそのキャンディを売り場に戻すことはなく、トイレ休憩の際にそのまま自分の口に放り込みました。
キャンディはとても甘く、美味しかったのを覚えています。キャンディがとろけ、口の中で何かがシュワシュワとはじけるごとに、私は今までに感じたことのないほどの幸せを感じました。売り場の物を盗んでしまったという背徳感以上に、幸福感の方が大きくて、キャンディを盗んでよかったとさえ思ってしまったのです。
だけどキャンディを盗むのは、このバイトでは大きなタブーでした。
もちろん売り場の物を盗むのは、どこのバイトでもやってはいけないことですが、このバイトに関しては、応募要項にもはっきりと売り場のキャンディを誤って食べてしまわないことと書かれていたのです。
キャンディを食べてしまったことの代償を自覚したのは、終業のチャイムが鳴り終わった後でした。
他の売り場のスタッフさんが続々と帰路につくためにバックヤードへと入っていくのを見て、私も自分の売り場を離れ、バックヤードへと向かいました。
どこのデパートでも似たり寄ったりなのかもしれませんが、私のバイト先のデパートはとにかくバックヤードが薄暗く、不気味な雰囲気がそこら中に漂っていました。通路をふさぐように置かれた段ボール類も道をわかりづらくしている原因で、私は始業時にもらった小さな地図を片手に必死に出口に向かって歩いていきました。
人の流れについていきながら、ようやく出口を見つけたころには、終業のチャイムからはもう30分以上が経っていました。
やっと外に出られる!
意気揚々と出口に向かう私を引き留めたのは、がたいのいい警備員さんでした。
「君、キャンディ売りのバイトの子だよね?バイトの子は北口から出てもらわないと困るよ。」
「…。北口ってどこにありますか?」
やっとの思いで言葉を返した私に、警備員さんは淡々と言い放った。
「ここが南口だから、反対方向かな。」
その時の私にはもう、警備員さんに腹を立てる余裕も残されていませんでした。デパート内はとにかく広く、出口に向かって歩いているだけで、足はパンパンにむくんでいました。接客用に新しく靴をおろしたことも災いしていたのかもしれません。
地図には北口のことは何も書かれておらず、とにかく私は直感を頼りに逆方向へ進んでみることにしました。
「すみません。北口ってどこですか?」
たまに見かけるここのデパートの正社員らしき人に聞いても、たいていの人は首をかしげるばかりでした。
「あっちかこっちかのどっちかなんだけどねぇ。」
あっちに進むかこっちに進むかの二択しかないまっすぐな道で、大真面目な顔で何の役にも立たない答えをくれるおじさんもいました。
「ありがとうございます!」
役に立たない情報に泣きそうな笑顔でお礼を言い、私はさっきとは逆方向に進みます。時計の針は、終業のチャイムから1時間が経っていることを示していました。足はますます痛くなっていたけど、構わずに動かし続けました。薄暗く狭い通路を全力疾走するので、ときどき通路に投げ出されている段ボールに躓きそうになることもありました。
「ねぇ、もしかして、北口探してる?」
声の主は、私よりは年上の背の高い女の人でした。
「なんで、わかったんですか?」
私の声は、喜びで、自分でもわかるくらいに震えていました。
「キャンディ売りのバイトの子だよね?キャンディ、食べちゃったんだ。」
女の人は、可哀想なものを見るかのような目で私の方をじっと見つめてきました。
「いーけないんだ!」
その瞬間、女の人は何かがはじけたようにゲラゲラと大声で笑い始めました。
「あの、何がおかしいんですか?」
「あのキャンディを食べちゃったら、もう外には出られないよ!私もあんたもここに一生閉じ込められたままなんだ!」
ゲラゲラ笑いながら、狂ったように叫ぶ女の人が嘘をついているようには決して見えませんでした。
「待ってください!何でですか!?あのキャンディっていったい何なんですか?」
必死で叫ぶ私に、女の人はゲラゲラ笑いながら答えた。
「そんなこと、知らないよー。でもよく言うじゃん、うまい話しには裏があるってね。」
私がデパートに閉じ込められて、もうすぐで8時間が経過しようとしています。なけなしの充電を使って、私はスマホのメモ機能に、今までの出来事を書いていくことにしました。残念ながら、デパートのバックヤードは圏外で、誰かと連絡を取ることはできません。誰もいなくなったバックヤードは、とうとう全ての蛍光灯が消され、私のスマホの液晶画面が光っているだけで、あたりは真っ暗です。
なぜ私がこんな無意味なことを始めたのかというと、今までの出来事を誰かに聞いてほしい、私が今まで生きた証を誰かに見つけてほしいという願いがあるからなのでしょう。
これを見つけてくれた誰かが、目の前にぶら下げられた甘い話をもう一度考え直してくれたら幸いです。もしも、キャンディの誘惑に打ち勝てるという人がいたら、それはご自身の責任でお願いします。デパートの中で会いましょう。