+竜宝廟の森+
翌朝、宿を後にした紬と拓陸は、昨日都入りした大門とは逆に位置する竜王の廟所へと向かっていた。
朝餉の膳の仕度を調える微かな物音に気づいた拓陸が、寝間から出て宿番の男と雑談を交わしていると、都を発つ前に紬を連れて是非立ち寄って行くようにと廟所参りを熱心に勧めたのだ。
間もなく起き出してきた紬も、初めて耳にする竜王の廟所に興味を示したものの、ふと昨夜から気にかけていたことを思い出し、拓陸の顔を見た。
「でも、帰りが遅くなると、あき嬢ちゃまとの機織りのお約束もあるし、若君にもご迷惑でしょ?」
「俺は別に構わないけど、確かに秋穂はへそを曲げるだろうな……おまえ、鳴海の屋敷にもう少し留まれるか?」
拓陸の問いに、紬は少し困った様子で頷いた。
「うん。もちろんわたしは構わないし、嬉しいけど……でもその前に、長様にお許しをいただかないと。ご領主様のお屋敷にあがって以来、ずいぶん長いこと織部から離れてしまっているし」
「そうだな。長には伯父上からも頼んでいただけるよう、俺も話をしておくから」
ふたりの会話を聞いていた男は、驚いた様子で紬を見つめた。
「失礼ですが、紬様は織部のご出身なのですか?」
「はい。鳴海の織部で生まれ育ちました。鄙育ちで出歩くこともないので、都のことはほとんど知らないんです。こちらは賑やかだし、珍しいものがたくさんあるから本当に楽しくて。いくら時間があっても足りません」
肩をすくめて笑う紬に、男も笑って頷いた。
「そうですね。わたしも長いことこの都で暮らしていますが、出歩かずに過ごしているといつの間にか店の並びが変わっていて驚かされます。都に住まいながら出不精なのも考えものですね」
身支度を調えたふたりが宿を出るころには既に日も高く昇り、昨夜この宿に逗留していたと思われる者の笠や草履もなくなっていた。
「――ほら、あれが竜王の廟所だ。地界から戻った竜王はあの滝の源にある深い湖に身を沈め、しばらく籠もった後、星姫の待つ竜王宮に戻るんだ」
都に唯一存在する竜王宮に最も近い竜王の祠でもあるその廟所は、縁を結ぶ願かけの祈祷廟として名を馳せており、竜王に願をかける天界の民の心の拠り所とされていた。
拓陸の言葉に天高くそびえる岩山の頂を振り仰いだ紬は、眩しげに瞳を細めた。
微かな虹の輪を放ち、しぶきをあげて岩肌を伝い降りる様は、今にもうねる水流が頭をもたげ、天空へと舞いあがりそうな錯覚を思わせた。
「わあ、ずいぶん高い岩山だねー。頂が霞んでる……あの奥に竜王様がいらっしゃるの?」
「ああ。あの様子じゃまだ竜王宮には入っていないんだろうな。警護の役人が崖上に潜んでいるから」
「え?」
間近に迫ってきた切り立つ岩の根は鬱蒼とした森で覆われている。木々はしんと静まりかえり、動くものの気配は微塵も感じられなかった。
「若君も、こちらで竜王様をお護りしていたことがあるの?」
「いや、俺は別の任を受けてあちこち出歩いていたから、都にずっといた訳じゃないんだ。まぁ大抵の用件は星姫が取り次ぐことになっているし、竜王御自身には突然出会すようなことでもなければ、顔を合わせること自体ないんじゃないか?」
……普通は、な。
最後のひと言を心の中で独りごちる拓陸の様子に、紬もちいさく頷いた。
「ふーん……ああやって、誰も立ち入らない場所に分け入ったりするなんて、お役人様って大変なんだね」
やがて道は廟所へ向かう森へと伸びる登坂に変わり、木漏れ日の中をしばらく歩くと、滝の流れ落ちる水音が少しずつ大きくなってきた。
傍らの馬の歩みが少しずつ早足になってきていることに気づいた拓陸は、笑って馬の首筋を軽く叩き、手綱から手を離した。
「待ちきれないのか? ほら、先に行ってろ」
馬は拓陸の声に応えるように嘶くと、背に荷を乗せたまま軽やかな蹄の音を立てて弾むように駆け出した。
「え……若君のお馬、どうしちゃったの?」
坂道の勾配の厳しさに、うっすらと額に汗を浮かせた紬に竹筒の水を差し出すと、拓陸は道端に座り込み、ちいさくなっていく馬の姿を苦笑しつつ眺めた。
「竜王の祠は動物にとっても力の源になる場所だ。早く辿り着きたくてソワソワしはじめてたし、この中でなら綱から自由にさせても大丈夫だから」
「森の中に迷い込んで、いなくなっちゃったりしない?」
視界から消えてしまった馬を見送っていた紬も、拓陸の傍らに腰をおろした。
「この辺り一帯は竜王の気が満ちているから安全だ。あの様子じゃ水の傍から離れたがらないかも知れないな」
「水?」
「ああ。滝壺は大きな池になっていて、その水を飲んだり身を浸したりすると、病や傷が癒えると言われてる――逆に助かる見込みのない者は、苦しまずに命を取られるとも」
「――え? ……あ」
水を飲む手を止めた紬から水筒を取りあげると、拓陸も水筒に口をつけて中身をあおり、軽く息をついた。
「あくまでも伝説的なものだけど、もともと竜は長寿の象徴でもあるし、竜王が身を沈めて傷を癒す水には強い治癒力があると信じられていて、遠くから水を汲みにくる者もいるらしい。実際、腹に子を宿した女が滝壺の水を飲むと、丈夫な赤子が生まれるんだそうだ。
この廟所が縁を結ぶって言われてるのも、竜寝泉の水が竜王と人間、親と子を結ぶ依り代として崇められているからなのかも知れないな」
「水が、竜王様と人間の依り代……」
「まだ飲むか?」
「え、う……ううん……もう大丈夫。ありがとう」
差し出された水筒に紬は顔を赤くして拓陸から目をそらすと、履いている草履の埃を払った。
少し休んだ後、ふたたび歩きはじめたふたりは、滝音が響く沢を通り過ぎて水を豊かに湛える清流の縁を進み、やがて森が開けた先の廟所へと辿り着いた。
廟所の前で立ち番をする役人がふたり、近づいて行く拓陸と紬の姿を見つめていたが、やがてひとりの役人が顔色を変えて近づいて来た。
「や、これは……次官殿!? 鳴海次官殿ではありませんか!?」
「――やはり見えられたか!!」
役人の声に廟所の中がざわめき、大勢の男達が飛び出して来た。
「おお! 次官殿!! お久しぶりでございます!!」
「次官殿が自らこちらへみえられるとは……もしや、都でなにかあったのですか!?」
どやどやと出てきた男達は一気に険しい表情になり、口々に拓陸に詰め寄った。
「いや、今日は私用だ。騒がせて申しわけないな」
ぐるりと周囲を大柄な警護役人達に取り巻かれ、傍らで身を縮めて目を丸くしている紬を示した拓陸に、明らかに拓陸よりも年かさと見える役人達は、おお。と声をあげると一斉に数歩下がって頭をさげた。
「これは、失礼いたしました! 先ほど将星によく似た馬が飛び込んできたので、驚いていたところなのです。申しわけありませんが我々の手には負えず、泉のほうに駆けて行きました」
「ああ。悪いけど放っておいてやってくれ。しばらく遊びたいんだろう。中には入れるか?」
拓陸の問いに、役人達は紬を気にかけた様子で顔を見合わせた。
「ああ。彼女は俺の知り合いだ。郷に戻る前に廟所を見せてやりたくて連れてきたんだ」
役人達は身を正し、紬に向かって改めて一礼すると拓陸に向き直った。
「黄竜様はまだ湖の底におられます。星姫様のお話ではお身体の消耗が著しく、しばらく宮には戻られないのではないかと。今のところ湖面も穏やかではありますが、水場まで参られる際にはくれぐれもお気をつけください」
「うん」
拓陸は頷くと傍らの紬をうながし、役人の案内で門扉をくぐりぬけて廟所の中へと入って行った。