+宵闇の蛍+
湯あがりの心地良さの中、庭先で光を放ちながら舞う蛍や、地に埋もれた星の切片をのんびりと眺めながら離れに戻ってきた拓陸は、濡れ縁に腰かけ、じっと庭を見つめている紬の姿に気がついた。
――おい、風呂に……
そう言いかけた拓陸は、俯き加減にちいさく唇を噛み、瞳を閉じた紬の様子に思わず足を止めた。
闇の中を舞い踊る儚げな光の瞬きにじっと視線を留めたまま、何度か瞼をしばたかせていた紬は膝に重ねていた手でそっと頬をぬぐった。
……ふぅ。
気持ちを落ち着けるように息をつき、膝を引き寄せて濡れ縁に足裏を乗せると、小声で歌を口ずさみはじめる。
――夕の川縁 光あつめ 綾をなして 舞うは蛍
竜の衣 姫の衣 絹の華と 亜麻の若葉
藍の渚 星の御橋 宵に生まれ 明けに昇る
調子を取るように僅かに身を揺らしながら鼻唄を歌い終えた紬は、宵闇の中、草葉の合間を舞い続ける蛍に向かってそっと手を伸ばした。
「……それも、織部の紡ぎ歌?」
拓陸の声に紬が振り返った。
「あ、おかえりなさい。うん、蛍ってあんなふうに光の糸を引いて飛ぶでしょ? さっきお池を見に行ったら、たくさん飛んでいて驚いちゃった。ほら、見て?」
ね、すごいでしょ?
庭の灯籠の仄かな灯りを頬に受けた紬は、瞳に微かな潤みを残しながらもニコリと笑うと足先を草履の置かれた庭石におろし、静かに揺らした。
「織部にも蛍くらい、いるんじゃないのか?」
そう言いながら傍らに腰を下ろした拓陸に、紬はこくりと頷いた。
「そうだけど、こうやってお屋敷のお庭で飛ぶ蛍を見たのは初めてだったから。
織部でも集落の外れの川まで行けば見られるけど、凪沙兄様が夜の川縁は暗くて足下がよく見えないから、絶対ダメだって言うんだもの」
「はは。あの兄貴なら言いそうだな」
笑い混じりに頷く拓陸に紬は星明かりの中に舞う蛍を眺めながら、言葉を続けた。
「ちいさいころはね、父様の肩車でよく蛍を見に川まで連れて行ってもらったの。父様は蛍を捕まえるのがとっても上手で、いつもちいさな竹籠に入れてくれて。
でも朝になったらいつもいなくなっていたから、きっとわたしと凪沙ちゃんが寝た後に籠から放していたのね……あの時の蛍も本当にきれいだったなぁ」
遠い日を懐かしむように微笑んだ紬は、わたしもお湯をいただいてくるね。と濡れ縁から立ちあがった。
「ね、お湯殿って立派だった?」
興味津々な様子で尋ねてくる紬の表情には、先ほどまでの影は感じられず、拓陸は庭先を飛び舞う蛍を眺めながら湯殿の様子を思い起こし、頷いた。
「ん? ああ、まぁ広くはあったけど」
「わあ、楽しみ。そうだよね、こんな立派なお宿だもの。若君、わたし戻ってくるのが遅いかも知れないから、先に休んでいてね?」
「ああ。明日はもう帰るだけだし、朝もゆっくりでいいからな」
「うん……でも、若君には都にお知り合いの方もいるんでしょ? 鳴海郷に帰る前に、どなたかにお会いしなくても良いの?」
「いや。もう俺は都仕えを終えた身だし、皆、祭りの仕度で忙しいだろうから、今回はいいよ」
「そっか……都のひと達もお百姓さんも皆、竜王様のお戻りを待っていたんだものね」
紬は都の上空を仰ぎ、散りかかった渡り雲の名残をじっと見つめた後、じゃあ行ってきます。と腰をあげ、渡りを歩いて行った。
しばらくの後、湯からあがり離れに戻ってきた紬は、灯りの残された部屋に入ると襖が半分ほど開いた隣室を覗き込み、思わずその場にぺたりと座り込んだ。
行灯の明かりが仄かに点された薄暗い隣室には蚊帳が吊ってあり、中にはふた組の布団が隣り合わせに延べられていた――そのひとつには拓陸が仰向けに寝転んで、瞳を閉じている姿が見える。
「……あ、あのぅ……若君? 起きてる?」
しばらくの逡巡の後、おそるおそる声をかけた紬の耳に、暗がりの中から拓陸の声が聞こえてきた。
「…………ああ、戻ったか。またえらく長湯だな」
「だって大きなお風呂で楽しかったから……って、そうじゃなくて! どうしてお床が並んでいるの?」
「許嫁を連れている俺に、気を利かせたんじゃないか? それか本気で勘違いしているかだろうな――別に俺は気にしてないから、遠慮なく寝てくれよ」
淡々と答える拓陸の声に、紬は顔を赤くして口籠もった。
「べ、別に遠慮なんか!! あ! そ、そうだ。わたし、こっちのお部屋で寝るね!?」
隣室の灯りを背に、急にわたわたと落ち着かない様相を見せはじめた紬に、拓陸は瞳を閉じて寝転んだまま溜息まじりに答えた。
「――安心しろ。そんなことしなくても、殻被りの雛鳥みたいな子どもをどうこうしようなんて思ってないから。それに明日の朝、大の字で寝てるおまえがそこにいたら、朝餉の膳の仕度もできないんじゃないか?」
「ち、ちょっと! 随分失礼じゃない!? わたしだってもう十四だし、もう立派な……ねえ、聞いてる!?」
「…………」
両腕を頭の後ろに組んで瞳を閉じたまま、なにも答えようとしない拓陸の姿に、延べられた床を前に大いに頬をふくらませていた紬は、小声で文句を垂れながらゴソゴソと衝立の背後に入り込んだ。
衣擦れの音を立てて帯を解き、寝装束の小袖ひとつで衝立の陰から蚊帳に潜り込んだ紬は、自分の布団を引き摺り拓陸から目一杯引き離すと、布団に入ってモゾモゾと寝る体勢を取り、しばらくの沈黙の後、チラリと拓陸を見やった。
「……ねえ? そんなに着込んだまま寝ていて、苦しくないの?」
「ん~? まぁ俺は慣れてるから――むしろこのほうが落ち着くな」
長年に渡る厳しい警護官勤めの経験を持つ拓陸は、寝る段になった今も装束を解くことなく床に着いており、その淡々とした言葉に紬はちいさく息をついて呟いた。
「ふーん……寝る時もゆっくり帯を緩めることができないなんて、お役人様って大変なんだねー」
「いつもこうして寝る訳じゃないし、草むらで虫に食われながら寝るよりはましだろ」
「……そんなこともあるの?」
興味を惹かれたような紬の問いに、拓陸は衣の袖口を捲ってみせた。
「これはもう一年位前のものだけど、いまだに毒が残ってるのか、掻くと痒くなる。触ったらもう終わりだな」
日焼けした拓陸の腕には、赤みの射したちいさな虫さされ跡が無数に残っていた。
ひっ?
「ね、ねえ。ちゃんと薬師様に診ていただいたほうがいいんじゃない?」
なんだか、わたしまで痒くなりそう。
衣の上から自分の腕を摩っていた紬は、あ。と声をあげ、むくりと身を起こした。
「ね、若君にあげた薬袋、貸して?」
「え? ……ああ」
布団から抜け出して寝装束の薄衣のまま無防備に近づいてきた紬に、拓陸は思わず身を起こすと、懐に入れたままの紬からもらった薬袋を取り出した。
「ちょっと待ってね? えっと……確か……あ、これこれ」
拓陸の前で膝を横に崩して座り込んだ紬は、薬袋から底の浅い黒い軟膏入れを取り出すと蓋を外し、鼻先を近づけて臭いを嗅いだ。
「うん。まだ大丈夫。若君、腕を出して?」
「……なんだ?」
「“医者いらず”の葉で作った軟膏よ。知らない?」
「ああ、蘆薈だろう? 俺も葉を切ってしばらく塗ってみたりもしたけど、袖で擦れてあんまり効かなかった」
「これは軟膏にしてあるから、もっと効くと思うわ。すぐに痒みが消えるかはわからないけど、毒消しにはなると思う」
「へえ。蘆薈の軟膏の作り方なんて、よく知ってるな」
拓陸の感心したような声に、紬は笑って肩をすくめた。
「でしょ? ほら、都にくる時に、郷の三叉路の近くで薬屋のおじさん達を見かけたじゃない? あのおじさんが売りにきた薬がすごくよく効いたから、作り方を聞いたら内緒で教えてくれたの」
「……ああ、あの時の?」
「うん。えっと、確か“竜王宮の女官様から教えていただいた”って言ってた」
「女官?」
確かに、竜王宮に出入りする様々な用向きの者の応対は主に女官達の仕事になる。その中にあの薬師もたまたま混じっていただけなんだろうか……?
そういえば、あれから姿を見ないな。
拓陸の腕を取り指先で掬った軟膏を塗り伸ばしていた紬は、気遣うように拓陸を見つめた。
「毒虫の傷は放っておくと爛れることもあるから、しばらくつけ続けたほうがいいよ。足りなくなったらまだわたしの家にもあるし」
「ああ。正直、風呂からあがるといつも痒くなって困ってたから助かった。もし足りなくなったら、また頼む」
軟膏を塗り終え袖をおろした拓陸に、紬は軟膏入れをもとどおりに収めた薬袋を手渡した。
「切り傷や火傷にも効くから、若君みたいなお役目の方には重宝ね?」
えっと……じゃあ、お休みなさい!
自分から拓陸のもとに近寄っていたことに気づき、我に返った紬は頬を赤くして衿もとに手をやりながら目をそらし、そそくさと自分の布団に潜り込んでじっと動かなくなった。
「紬」
「……なに?」
「おまえ、雛鳥の割には結構気が利くんだな」
褒め言葉とはとても取り難い拓陸の言葉に、紬のやり返す声が聞こえた。
「――若君は立派なお役人様の割には、結構大人げないね」
布団を被ったままのくぐもった紬の声からは、頬をふくらませている様子がありありと伝わってくるようで、拓陸は笑いを噛み殺すと口許に笑みを残したまま軽く息をつき、寝入りのために静かに瞳を閉じた。