+雲間の竜+
都へ向かう街道を、跳ぶように馬が駆けていく。
先程まで晴れ渡っていた空は少しずつ霞がかりはじめ、少しずつ水気を含んで重たくなりはじめた空気は、鈍く光る空からやがて雨粒を落としはじめた。
「あー、やっぱり降ってきちゃったねー!!」
疾走し続ける馬の背で手綱を握り締め、あまりの速さに目を白黒させていた紬は、淀みはじめた頭上の空の暗さが一気に増した事に気づき、ふと顔をあげた。
「……ね、ねえ? なんか風が、だんだん強くなってきてない? さっきまで晴れてたのに、あんなに真っ黒な雲が……え……?」
街道が急に暗くなった――そう感じた瞬間、ふたりを乗せて全力で駆けていた馬がいきなり後足で立ちあがり、前足を藻掻いて激しく嘶いた。
「きゃあああ!!」
「うわっ!?」
馬の背から振り落とされ、もんどり打って街道沿いの草地に投げ出されたふたりは、そのまま土手の中腹まで転がり落ちた。
「いったぁ……」
「――おい!? 無事か!?」
「う、うん。ちょっとお尻をぶつけたけど、どこも何ともないわ……は~! びっくりした。若君のお馬、いったいどうしちゃったの!?」
少し離れた場所から聞こえてくる紬の元気な声に、拓陸はホッとしながら慌てて身を起こして土手を駆けあがり、馬の姿を探した。
随分遠く離れた場所で激しく首を振り、落ち着かない様子でしきりに足を踏み鳴らしている馬のもとに駆け寄り手綱を手にすると、拓陸は興奮する馬をなだめながら、腰をさすりつつ土手をよじ登ってくる紬のもとにとって返した。
強風が川沿いの土手を薙ぎ、先程まで穏やかだった川面が水気を含む風を受けてさざ波を立てている。河原でざわめく草原と呼応するかのように、遥か遠い山にかかる厚い雲からゴロゴロと重く腹の底に響くような音が響きはじめた。
時折、顔を打つ雨足の強さは変わっていないのに、みるみるうちに空は暗さを増していく。風が渦を巻きながら煙幕の如く視界を鈍らせ、街道の土埃を攫って雨雲の広がる空へと舞いあげはじめた。
身体中にびっしりと汗をかき、しきりに嘶いては首を振り脚を踏み鳴らす馬をどうにか落ち着かせようとする拓陸の緊迫した様子を、半ば呆然と眺めていた紬は、ふと背後からなにかが迫ってくる気配を感じ、後方の空を振り仰いだ瞬間、目に飛び込んだ光景に悲鳴をあげた。
「きゃあああ!! 若君!! あそこ!! ――雲の上になにかいる!!」
紬の絶叫に弾かれるように天空を振り仰いだ拓陸は、雷光を迸らせ渦を巻く雲間を掠めて翔ぶ異形の者の姿を認めた途端、一気に表情を強張らせ、舌打ちして低く唸った。
「――くそっ! こいつがこんなに暴れるなんて、おかしいと思ったら……当たりか!! よりによって、こんな時に……!!」
突如、激しい馬の嘶きとともに身体が飛ばされそうになる程の大風が街道を襲い、辺り一帯のものを舐め尽くすように根こそぎ攫いながら吹き抜けた。
――――グォゥ……キョオォォ…………ォォ…………ン
吹き抜ける風の合間を、天空を切り裂くような激しい音が響き渡る。
身を叩きつける激しい風にまともに曝され、立っていられなくなった拓陸は手綱から手を離すと、紬を抱え込むようにその場に膝をつき地面に身を低く屈めた。
「――風が収まるまで動くな!! 吹き飛ばされるぞ!!」
「な……な、なんなのこの風!?……それに、今、なにか――なにか飛んでなかった!?」
「――竜王だ!! 地界から戻ってきたんだ!!」
「え!? で、でも……竜王様は、都の竜王宮にいるんじゃ……ぎゃあああ!!」
身体をえぐるような猛烈な突風の中、悲鳴をあげる紬を深く抱き込み、拓陸は大声で叫んだ。
「竜王は二頭いるんだ!! 都にいるのが紫竜! ――今、俺達の上を渡っているのが黄竜だ!! おまえ、竜を観たことは!?」
「りゅ、竜なんて、観たことあるわけないじゃない!! 頼まれたってお断りよ!!」
紬の悲鳴混じりの絶叫を飲み込んで渦巻く風がふっと収まり、空を覆っていた雲はみるみるうちに四散しながら、大気に溶けて消えていった。
吹き荒れていた暴風に根こそぎ洗いざらい持って行かれた後の街道に、ぽつりと残されたふたりと馬一頭は、やがてヨロヨロと立ちあがり、夕日へと変わろうとしている穏やかな午後の陽射しの中、ふたたび都へと馬を引いて歩きはじめた。
「……ねえ? 若君がさっき、いやな感じがするって言ったのは、このことだったの?」
「ああ……竜王の渡りには、いくつか道があるんだけど、この街道筋を通るかどうかまでは、わからなかったし……」
こいつにも、悪いことした。
やっと落ち着きを取り戻した馬の首筋を軽く撫で叩きながら、その背に積んだ荷物を結び直す拓陸の傍らで、紬は見事に薙ぎ倒された河原の草原を見渡しながら、自分の髪に潜り込んでいる葉を摘んだ。
「わあ。すごい風だったのねー。若君も頭ぼさぼさ。凪沙兄様が見たら泣くわね~」
乱れ放題の髪のまま、のんきに拓陸の頭を指差して笑っている紬に、拓陸も自分の髪に手をやりながら、はぁ。と溜息をついた。
「髪なんかより、おまえ……全力で走る馬から投げ出された挙げ句、竜王の渡りにまで出会しておいて、よく平気だな?」
「お馬にも竜王様にも、そりゃあ本当にびっくりしたけどー。それより、ねえ若君? 竜王様が二頭というか、その……御ふた方いらっしゃるって、本当なの?」
「ああ。もっとも双竜が揃うのは本当にわずかな時期だけだけど……ん? ああ、できてきたな。ほら見てみろ」
拓陸の言葉に天空を仰いだ紬は思わず目を見張って足を止め、驚きの声をあげた。
「あ~……これが、渡り雲……?」
わぁ……きれい……
夕暮れの陽光を浴びてキラキラと虹色に乱反射する雲の波が、まるで天空に一筋の帯を広げたように街道に沿って都のある山々の向こうへと続いている。
青く澄み渡る空の下、頭上に煌めく渡り雲に導かれるように、ふたりはゆっくりと馬を引きながら街道を歩きはじめた。