+星の紡ぎ歌+
昼も越えようかという頃、ようやくふたりは織部の集落へと辿り着いた。
目につく家々に人の気配はなく、しんと静まりかえっており、遠くに見える大屋根の辺りから、機織りの音に混じった娘達が歌う声が、風に乗って流れてくる。
紬は拓陸の手を借りて馬から下りると、濡れたままの靴を脱いで両手に持ち、馬上の拓陸を眩しそうに見上げた。
「本当に中に入らないの? 若君もお疲れでしょ?」
「俺はいいよ。長に挨拶もしてないし、天帝の直轄地の中に関わりのない俺が、そう易々と立ち入るわけにもいかないだろ」
ここで待ってる。
拓陸はそう言って近くの木陰に馬を引いて手綱を枝に繋げ、幹に寄り掛かるように草地に腰を下ろした。
「じゃあ、ちょっと行って来るね?」
「おー。早くしろよー」
パタパタと軽い音を立てて紬の足音が遠ざかると、先程から盛んに鳴いていた蝉の声が、どっと噴きあがるように拓陸の耳に迫って来た。
それにしても、暑い……。
少しでも風を入れようと、指先で衣の襟元を摘んで帯から軽く引き出し、額や首筋に浮かんだ汗を拭うと、拓陸は軽く息をついて瞳を閉じた。
機織りの音に合わせて、娘達の歌が緩い風に乗って流れてくる。
――竜の渡りて 天の川に 零るるは 金の糸 銀の糸
泡を混ぜて 紡ぐ紡ぐ 天と地とを めぐる唄を
「紡ぎ歌……」
閉ざされた瞼越しに、日の光を遮る枝葉の影がチラチラと揺れている。吹き抜ける風が誘う、心地よい眠りに落ちそうになった時、ふとその木陰が濃くなったことに気づいて目を開けた拓陸は、その場で一気に硬直し、絹を裂くような悲鳴を上げた。
「ひいっ!!」
拓陸の視界に飛び込んで来たのは、顔を強張らせて目を剥き出し、喰らいつくように自分を凝視したまま、胸の前に組んだ両手をワナワナと震わせている大男の姿だった。
「た……っ、拓陸様!! 遠くからお姿を拝見して、まさかと思って来てみたら! こんなところで再びお会いできるとは!!」
視界を覆う大岩の如き影は、拓陸の様子などまったく目に入らないかのように頬を赤く染め、身に着けている前掛けの裾を固く握り締めたまま、身体をモジモジクネクネさせていたが、やがて感極まったように盛大に両手を広げ、腰を抜かしかけて逃げられない拓陸に猛然と跳びかかると、目一杯の力で抱きついて来た。
「拓陸様あああああああっ!!」
な、な!? こいつ、いったい――誰なんだ!?
まったく状況が飲み込めないまま、渾身の力で締め上げるように抱きついてくる岩のような大男から逃れようと、拓陸がその腕を掴んだ瞬間、紬が悲鳴とともに姿を現した。
「きゃー!! いないと思ったら、凪沙兄様!? こんな昼日中から、なにしてんのよ!?」
「なにしてるじゃないだろう!! やっと掴んだ俺と拓陸様の、懐かしい再会を邪魔するな!!」
「兄様の力で締め上げたら、若君が死んじゃうってば!! 都に行くまでは、どうしたって死んで貰っちゃ困るんだからっ!!」
ヒイイ、やめろっ!!
跳びかかってくる紬と、拓陸に絞め技をかけるようにガッチリとしがみついたまま応戦状態に入った凪沙の巻き添えを喰らい、三つ巴の状態でしばらくもみくちゃにされた挙げ句、ボロボロになった拓陸は、乱れきった衣の袂を直し、青ざめたまま溜息をついた。
「……で。こいつがおまえの兄貴で、凪沙か?」
「は、はい! この度は、妹が大変なご迷惑をお掛けしました!! うおおおお!! こうして直接、ご挨拶をさせていただける日が来ようとは!! 俺は……俺は幸せです!! 拓陸様ああぁっ!! ……うっ……うっ」
地面にへたり込み、前掛けを握り締めたまま、さめざめと感涙している凪沙は、ふと拓陸の旅支度に気づき、涙を拭きながら顔をあげた。
「拓陸様? これから、どちらかにお出掛けですか?」
「……ああ。ちょっと都まで」
「そうなの。わたし、若君と一緒に都まで行ってくるわね? お兄様」
「――なんだと!?」
ひっ!?
感激の余り涙にくれていた凪沙は、紬のひと言で一気に鬼の形相へと表情を変え、それを目の当たりにした紬と、関わりのないはずの拓陸までもが、身を縮み上がらせた。
「紬、おまえ……またなにかしでかしたのか!?」
「きゃー!! ち、違うってば! ……そうじゃ、そうじゃなくて……えっと」
助けてくれなければ、今すぐ死ぬ!! とでも言わんばかりの、蒼白の紬の表情に、拓陸は青ざめたまま、その場を取り成しに入った。
「いや……じつは、鳴海の家の用事で、もうじき俺の従姉妹の裳着があるから、その衣の布地を見立てるのに、彼女の意見も参考にしたいんだ。織部にとって大切な時期に申し訳ないが、すぐにでも発たなきゃいけないから……おい、支度はできたのか?」
拓陸に問われ目を泳がせた紬は、拓陸と凪沙を交互に見つめて強張った笑顔で何度も頷いた。
「え? そ、そう。そうよ? そうなの。じゃあ、凪沙兄様、ちょっと行って来るからね?」
「そうですか! 従姉妹姫様の御裳着が。それはおめでとうございます!! 秋穂様も、もうそんな御歳におなりなのですね……。紬! おまえ、くれぐれも拓陸様のご迷惑にならないように身を慎むんだぞ!」
拓陸の言葉であれば無条件で納得してしまうのか、凪沙はあっさりと紬の都行きを認めつつも、釘を刺すことは忘れずに、ほぼ穏やかな様子で見送ってくれた。
再び馬上のひととなり、遠ざかって行く拓陸と紬の姿が見えなくなると、凪沙は肩を落として溜息をつき、晴れ渡った青空を見上げた。
「……こんな風にあいつを怒鳴りつけることも、もうそんなに多くはないのかも知れんな――まったく、いくつになってもあいつは俺の心配の種だ」
鳴海郷の中を瞬く間に駆け抜け、都へ向かう大きな街道をしばらく進んだ後、拓陸は馬の足を徐々に緩め、並足にすると空を仰いだ。
「少し風が出てきたな。雲の流れも速いし、もしかしたらひと雨来るかも知れない。……それに、なんだかいやな感じがする」
「いやな感じ? ……雨が?」
「今日は朝から、ずっと晴れていただろう? それなのに、あれ……見てみろ」
街道はちょうど、いつかの切り通しに差しかかっていた。
眼下に広がる鳴海郷の景色のはるか彼方に連なる山並みに、いつの間にか濃い霧が立ち込め、傘被りのような灰色の帯を作りはじめている。紬は頭上に光り輝く青い空を仰ぎ、首をかしげた。
「確かにあの雲が広がれば雨が心配だけど、こっちはまだ晴れてお日様も出てるし、大丈夫じゃない?」
「あの峰の奥には竜王の湖があるんだ。――そろそろかと思ったけど、できるだけ急いだほうがいいな。こいつには申し訳ないけど、もうひと頑張りして貰うか。もういい加減慣れただろ? そろそろ、本気で走らせるぞ」
「ひっ!? ……ま、また早駆けするの?」
手綱を引いて馬の首を街道に向け、遠い空を見つめる拓陸の表情に、紬もつられるように、鈍い色を膨らませはじめた、はるか彼方の山並みに目を移した。




