+迫り来る影+
翌朝、空がまだ暗いうちに鳴海郷の領館を発った紬と拓陸は、天地双方に星の瞬く景色を眺めながら、ひとつ馬の背に揺られて都へと向かっていた。
紬を伴い都に向かうことを、伯父に問われるのではないかと思い、一応もっともらしい言いわけまで用意してあったのだが、伯父は道中気をつけるように。との言葉を掛けたきり、特に何も尋ねることはせず、ふたりを送り出してくれた。
人気もなく、暗い明け方の道を馬の背に揺られていくうちに、鳴海家の領館はじきに見えなくなった。やがて山の端に薄く掛かる雲が白く輝き、辺りを照らしていた星の瞬きが失われる頃、道は織部と街道に通じる三叉路へと差し掛かった。
「あれ? ……若君、向こうから誰か来るよ?」
「こんな早朝に何の用だ? ……夜中歩き通したにしても、この先には大きな街道に通じるような道はひとつもないのに」
顔を見合わせ、まだ遠くに見えるその影に視線を戻すと、牛馬も連れず、身軽な装いの数名の男が、ひっそりと固まって三叉路へと近づいて来るところだった。
「…………」
三叉路に辿り着いた男達は、道から外れるように木陰に身を寄せた。屈み込んでしばらく何事かを小声で言い交わした後、男のひとりが再び立ち上がる気配を見せた。
「――様子が変だ。ちょっと道を外れて迂回しよう。静かにしてろよ」
静かに馬の首を灌木の中へと向け、ゆっくりと歩みを進めるうちに、男達が三叉路から足早に散っていくのが見えた。
三叉路にはひとりの男が居残り、それぞれの道へと散っていった仲間の姿が去っていくのを見送っている。やがて男は道端から何かを拾い上げ、再び軽く屈み込んだ後、元来た道へゆっくりと姿を消した。
「おまえ、あいつらの顔に見覚えある?」
「うん。たまに織部に来る、薬売りのおじさんよ」
「……薬売り? 全員か?」
「ううん。最後までいたおじさんだけで、後は見たことないひとだったけど……なにしてたのかな?」
ね、ちょっと見て来ていい?
馬の背から降りようとする紬を無言で制し、拓陸は馬の腹を軽く踵で押すと、更に雑木林の中へと進み始めた。
「若君?」
「まだあいつらが近くにいるかも知れないし、今は余計なことに関わらないほうがいい。この先にもなにか手がかりが残してあるかも知れないし」
「手がかり?」
紬の声に、ああ。と拓陸は頷いて、木立の向こうに消えようとしている三叉路を肩越しにチラリと振り返った。
「とりあえず、しばらく道から外れて進むか。ちいさな谷をひとつ越えれば、また道に出られる。おまえ、寝ぼけて馬から落ちるなよ」
「じゃあ、谷に出たらご飯にしよう? 慣れないお馬に乗ってたら、お腹空いてきちゃった」
「おまえ、さっき出発する前に死ぬほど食ってたじゃねーか。余分な飯なんか持って来てないんだ。昼までには街道に出るから、それまで我慢しろ」
「え!? お昼まで、なんにも食べられないの!?」
やだぁ、知ってたらおむすびにして持ってこられたのにー。
心底がっかりしたような紬の声をよそに、拓陸はもう一度だけ、背後を振り返った。
谷までの道は古い山道を辿ったもので、時折使う者があるのか、比較的道の下草が払われてあったため、順調に馬の歩は進んでいた。
拓陸が手綱を引いて歩き、紬は馬の背に乗ったまましばらく歩くうちに、拓陸は笑って紬を見上げた。
「おまえ、馬に乗るのが二度目にしては飲み込みが早いな。ちゃんとひとりで乗れてるじゃないか」
「若君にお馬で織部に送って貰った時は、本気で振り落とされると思ったんだもの。そりゃあ必死にもなるわよ。へへ。あの時わたしがお馬に乗って戻って来たのを見て、みんなものすごく驚いてたね? ちょっと面白かったなぁ」
楽しげに笑う紬の声に拓陸は、ん? と首を傾げた。
「驚くって、別におまえらも仕事で馬くらい使うだろう?」
「お馬なんて、この辺りには野生のお馬か、立派なお屋敷にしかいないよ? あ! そういえばそのせいで、このあいだ若君が帰った後、わたし凪沙に半日吊されたんだから!」
「はぁ? 吊るすって……また随分凶暴だな」
「でしょ? 名前だけは本当に可愛いのにね。確かに間違いなく凶暴だし、あれじゃ命がいくつあっても足りやしない」
盛大に溜息をついた紬の顔に、拓陸は苦笑して前方に向き直った。
「凶暴なりに、嫁入り前の妹の身が心配だったんだろ」
「へ?」
紬は首をかしげ、あ~。と声をあげた。
「やだなぁ若君。それじゃ全然意味が違うよ」
「違う?」
「うん。凪沙兄様はね、わたしの身なんかより、若君第一だってこと」
ひとさし指を自分に向けニッコリと笑った紬の前で、合点のいかない拓陸は首を捻った。
「はぁ? おまえの兄貴が、なんで俺のことでおまえを吊すんだ?」
「だからぁ、凪沙は寝ても覚めても鳴海郷の若君、拓陸様のことがそれはそれは大好きで、織部の女の子達以上に、若君に心酔してるってこと」
熱をあげてる“拓陸様”が、まさか若君のことだったなんて、わたしは最近まで知らなかったんだけど。まぁ障害だらけの報われない恋よねー。残念だわ~。
完全に面白がっている脳天気な紬の笑い声に、拓陸は顔を青ざめ振り返った。
「おい……。この郷の織部の奴らは、みんなそんな変態ばっかりなのか?」
「んー? 確かに、凪沙兄様の場合は入れ込み様がちょっとおかしいかも。でも、男なら誰でもいいわけじゃなくて『拓陸様は特別なんだ!!』っていつも熱弁してるよ? 『あくまでも、男同士の敬愛と思慕だ!』とか叫んでたし――あ。そういえば『今度、若君が織部にお越しになったら、絶対にうちに泊まっていただくんだ、俺がお背中を流して、飯もお世話申し上げるんだ!!』って、凪沙兄様、すっごく張り切ってたけど。どう? ちょうどいい機会だし、織部に泊まって凪沙兄様に会って行く? 兄様、泣いて喜ぶだろうなぁ」
「絶対行かない!!」
背筋を悪寒が走り、ぶるっと震え上がって馬の手綱をしっかりと握り締めた拓陸は急に早足になり、谷に向かって猛然と進み始めた。
「ち、ちょっと!? 若君!! う、うまっ。は、早い! 早いってば!!」
「いいか!! 俺は織部の中には金輪際、一歩も立ち入らないからな! もちろん今日もだ!!」
「えー? なんでよー?」
「これ以上、変態どもの餌食になってたまるか!」
“ども”ってなに!? わたしもってこと!?
紬の抗議にも、むっつりと黙り込んだ拓陸は不機嫌な様子のまま、もくもくと馬を引いて歩き続け、谷川の水音が近づいて来た頃、ようやく歩を緩めてひと息つくと、額に浮いた汗を拭った。
「だいぶ歩いたし、一旦休もう。後からも誰もついてこないなら、少しくらい休んでも大丈夫だろ」
「あ。さっきのおじさん達? でも別にわたし達、盗られるような物はなにも持ってないでしょ?」
「いや……そうじゃなくて。とにかく降りろ。こいつも暗いうちから延々と耐えきれないほどの重しを積んで、いい加減ヘトヘトだ」
ちょっと! どういう意味っ!?
ふたりの交わす声は沢を流れ落ちる水音に紛れ、やがて辺りは静かになった。