09 窮地
「シリル様!」
起き上がり、シリルの状態を確認する。彼は苦痛で顔を歪ませながら、瞼を開けた。
「ケイティ、怪我は?」
「私は大丈夫です」
「なら、良かった」
安堵したように、わずかにシリルの表情が緩んだ。
「良くありません! 公爵家の跡取りが、格下の令嬢を庇うなんて何を考えていらっしゃるのですか!」
貴族には序列がある。誰がどう見ても、盾になるべきはケイティの方だ。シリルの判断は間違っている。
けれど一番腹立たしいのは、守られるほどの隙を見せた自分の未熟さだ。
「どうして……どうして私を庇ったんですか?」
悔しくて涙が滲む。
するとシリルが苦痛で顔を歪ませながら身を起こし、ケイティを抱き締めた。
「シリル、様?」
「ケイティを愛している」
「――っ」
「頭で分かっていても、体が動いてしまった。君を愛しているから、心の底から、誰よりも愛しているから……だから逃げて、お願いだ」
シリルはケイティから体を離し、突き放すように彼女の肩を押した。その力は弱々しく、震え、置いていけば魔獣の餌食になるのは火を見るよりも明らか。
それを分かって、彼はケイティを助けようとしていた。
「シリル様、ケイティ様、お逃げください!」
少し離れたところから、騎士が必死に魔獣を相手にしながら叫ぶ。
馬は魔獣を恐れ、逃げてしまっていた。
「今の私は走れない。ケイティだけでも、できるだけ遠くに!」
シリルは己の命より、ケイティを優先する。
そうして戸惑っている間に、最後の騎士も突き飛ばされ気を失ってしまった。
動く人間に興味を持つのだろう。魔獣の赤い目が、ケイティたちに向けられた。
「ケイティ、逃げるんだっ!」
「――嫌です」
歯を食いしばり、ケイティは立ち上がる。そして、シリルの腰から剣を引き抜いた。
「な、なにを――」
「守ります……シリル様は、私が守る!」
魔獣が向かってきたと同時に、ケイティも魔物へと踏み込んだ。
柔らかい大地を潰すように足に力を入れ、弓のように体をしならせて、ギリギリまで引きつけたところで剣を振り下ろした。
「ギシャァァアアア」
魔獣が叫び、仰け反った。頭部を切られ、痛みでもがいている。
ケイティは空いた距離を縮めるようにさらに前へと踏み込み、力の限り剣を振った。剣筋に迷いはなく、流れるような動きで攻撃を繋ぎ、魔獣の表面に傷をつけていく。
(首を断つには、魔獣の体表は固すぎるわ。傷を増やし動きを鈍らせ、四肢を狙う!)
ケイティを襲おうと魔獣が飛び上がった瞬間を逃さず、彼女は姿勢を低くして右前脚を横薙ぎに切り落とした。無駄のない動きは、熟練の戦士そのもの。
『レイラン家に名を連ねたるもの、愛する者のためなら迷わず命と剣を捧げよ』
こうして彼女が剣を振ることができるのは、レイラン家の裏家訓のお陰だ。
百二十年前の魔王との戦いでは、剣の天才と称されたクライヴ・レイランですら大切な人を守り切れなかった。力がなければ、そもそも守る行為すらできない。
その教訓が今も一族に引き継がれ、レイラン家の直系に生まれた者は男女関係なく、『敵を殺す』ための実践的な剣術を叩き込まれる。
女児の場合、外聞が考慮され特訓は家族以外に秘匿されていた。たとえモルガー家が相手でも。ケイティの手の平がシリルよりも荒れており、シリルがその理由を知らないのにはそういった経緯があった。
特に彼女は運動神経も良く、センスもあった。女性でなければ、王族の近衛を目指せただろうと言われるほどの腕前だ。
(剣術の稽古は嫌いだったわ……苦しいし、痛いし、手は荒れるし、可愛くないし……でも! シリル様を守れないよりはずっとマシよ!)
ふっと短く息を吐いて呼吸を整え、動きが鈍った魔獣の首を狙い容赦なく振り下ろした。切り落とすことは無理だったが、半分まで刃が通る。
(もう一太刀!)
そう思って剣を引くと、刃が半分に折れてしまっていた。冷や汗が流れる。
けれど同時に魔獣の赤い目から光が消え、敵は横に倒れ、ピタリと動きを止めた。
「た、倒せた……?」
ジッと見下ろすが、魔獣は動きそうもない。
体の力が抜けたケイティは、そのまま血だまりの上に両膝をついた。
「ケイティ!」
シリルがケイティに駆け寄った。もう走れるところを見ると、幸運にも重い怪我は負っていないらしい。離れたところでは、申し訳なさそうに頭を下げる騎士ふたりがいた。
「皆さんご無事で何よりですわ」
そう微笑めば、シリルが泣きそうな表情を浮かべた。
「なんて無茶をするんだ! それに剣だって」
「こういうときのための剣ですのよ」
「では、ケイティの手の平がよく荒れていたのは」
「はい。たくさん練習していて良かったですわ」
「ケイティ!」
力強くシリルがケイティを抱き締めた。
「シリル様、血で汚れてしまいます」
「かまうものか! ありがとうケイティ、君が無事で良かった」
「――はい、ご心配おかけしました」
少し戸惑った後、ケイティもシリルを抱きしめ返した。温もりが、強張っていた体と心を解きほぐす。
そうして安堵の空気に包まれそうになったそのとき、背後でゴボリと沼が音を立てた。
全員が息を呑む。
恐る恐る闇色の沼へと視線を向ければ、新たな魔獣が二頭生まれていた。べちゃりと真っ黒な泥を体から落とし、赤い目が現れる。
生まれたばかりで覚醒していないのか、こちらに向かってくること無く佇んでいる。
騎士が「今のうちにお逃げください」と視線で訴えてくるが、無理な話だ。馬はおらず、走れる体力は残されていなかった。
応戦したとしても、次は敗れるだろう。先ほどは成功したが、体力もあって剣も新品だったからできた偶然にすぎない。
それでもケイティは折れた剣を再び握り立ち上がると、魔獣を見据えた。
「ケイティ……?」
「私が、お守りします」
そう言って一歩踏み出した。
魔獣の赤い瞳がケイティを捉える。そして、のそりと大きく体を揺らし、力強く大地を蹴って彼女に突っ込んできた。
(怖い……怖い……でも、シリル様を失うほうがもっと怖い!)
恐怖を、別の恐怖で上書きして、頼りない剣を持つ手に力を込めた。
「ケイティ!」
愛する人の悲痛な叫びを振り払い、さらに一歩踏み出そうとして――
「よくやったわね」
凛と、よく通る女性の声が森に響いた。