05 素顔
領地視察の手紙を持った幼馴染を執務室から見送ったシリルは、両手で顔を覆った。
「ケイティと旅行だなんて、夢みたいだ」
手のひらで支えても、顔が緩んでしまうのを止められない。
愛してやまない幼馴染ケイティとの、ふたりだけの遠出だ。もちろん視察という仕事があるのは嘘ではなく、自分の執事トムやケイティの侍女ラーナも同行するが、片思い相手の時間を自分が独占できるというのは嬉しくて仕方ない。
しかも、最近はようやく異性として意識し始めた節がある。
「シリル様、頑張りましたね」
幼い頃から仕えている執事トムが、涙ぐみながら主シリルを労う。ケイティの攻略に苦戦する主の姿を、最も近くで見守っていた執事は感動せずにはいられないのだ。
それだけシリルの片思いは長かった。
物心ついた頃から、彼はモルガー家の偉大さを実感していた。隠居したにもかかわらず存在感のある祖父母、威厳ある父親、優雅な振る舞いの母親、優秀な親戚に統率が取れた使用人たち――と、誰もが自分より優れていると分かったからだ。実を言うと、弟と妹の方がシリルより賢い。
そう劣等感を抱きながら始まった後継者教育は想像した通り難しく、理解するのに時間がかかった。勉強に時間を費やす必要があり、憧れていた剣術は最低限の技量しか身に着けられそうにない。
けれども、シリルをよく知らない外部の人たちは『偉大なモルガー家の後継者は、当然偉大に決まっている』、『それ以外は認めないし、あり得ない』と期待を寄せた。家族は支えてくれると言ってくれるが、周囲の期待がなくなるわけではない。
苦しかった。
モルガー家の名に傷をつけるのでは……という不安と、容赦なく寄せられる期待が重すぎて、逃げ場がなくて潰れそうになっていた。
私はなんて情けないのだろう――そう劣等感に飲み込まれそうになったとき、一番の支えになったのがケイティの存在だった。
十歳の頃、何もかもうまくいかなくて「私は一族の欠陥品だ」と愚痴を零してしまったとき、彼女は「シリル様は謙虚すぎだわ。どこが欠陥品なのですか?」と本気で分からないという顔をして返してきた。
「なに? ご機嫌とり?」
完全にやさぐれていたシリルは鼻で笑い、八つ当たりのような言葉を投げた。
だがケイティは悲しむことも怒ることもなく、不思議そうな顔を浮かべたまま。
「だって、私の知っている人で一番の努力家はシリル様ですわ。立派じゃありませんか」
「それは私がモルガー家の人間だから」
「でも、その努力はシリル様だけのものですわ。努力できることまで遺伝するとは思えませんもの」
そう言われ、目が覚める思いだった。
シリルが驚きで唖然としている間も、ケイティは言葉を続ける。
「シリル様の姿を見ていると、私も負けていられない! って頑張れるんです」
「……でもこんな足掻くような努力ではなく、スマートにできれば良いのにと思うよ。格好悪くて情けない」
「もうっ、足掻くような努力ほど難しいものはありませんわ。シリル様は格好良いですよ。私、努力する人が好きですわ」
「――っ、ケイティは私が好き?」
「はい! 尊敬しております」
好きの方向が違うのは分かっていたが、このとき『落ちた』とシリルは自覚した。
余裕がなくて気付けなかったが、過去を振り返ればケイティはいつもシリルに寄り添ってくれていたことを思い出した。何かあれば一緒に喜び、悲しんでくれた。
こんなに素晴らしい令嬢は、世界で彼女だけ。どんなときも隣にいて欲しいと、その真っすぐな眼差しを向けて欲しいと、誰にも渡したくないと望んだ。
一生、ずっと。
その晩すぐにシリルは、父親である公爵に『レイラン家にケイティとの縁談を申し込んで欲しい』と頼んだ。公爵もケイティを気に入っているし、家格も釣り合う。だから問題ないと思っていたのだが……
「ケイティに、シリルと同じ気持ちを抱かせたら良いだろう。レイラン家は、モルガー家にとって大切な存在だ。家格を利用し、相手の気持ちが伴わないような縁談を結ばせるわけにはいかない」
「では父上、もしケイティが他の令息を慕うようなことがあったら」
「そのときは諦めなさい。ケイティの気持ちを尊重することだな」
そう言われ、当然ケイティの気持ちを手に入れるべくシリルは動き出した。彼女に好かれようと努力をさらに重ね、紳士的に振舞い、明らかに特別扱いをして好意をアピールしてきた。
社交界ではシリルの片思いは有名な話で、モルガー家を敵に回さないよう貴族の令息たちはケイティにダンスを申し込まなくなり、もちろんお見合いの打診も遠慮した。
思わずケイティの美しさに吸い寄せられ近づいたとしても、後日偶然顔を合わせたシリルの笑みを見て正気を取り戻し、撤退するのがお決まりだ。
そしてケイティの父、レイラン伯爵も既知のことで外堀は埋まっている。
知らないのはケイティ本人のみ。
しかし何をしても尊敬ばかりされ、異性として意識してもらえない。そうして敬愛ポイントばかり溜まり、恋愛ごとに発展せず片思い歴八年が経過していた。
何度も凹んできた。自分はそんなにも魅力のない男なのかと、たくさん悩んできた。けれど到底この恋を手離せそうにはなかった。
敬愛フィルターのせいで鈍感なケイティに呆れることなく、いまだ諦めずにアピールを続けられるのは、それこそ努力を継続できるシリルだからこそだろう。
だが最近、問題が生じてきていた。
婚約の適齢を迎えたケイティが縁談に興味を持ち始め、あろうことか将来は『他家に嫁ぐ』前提でモルガー家に通うと言い出したのだ。
シリルが、それを許すはずがない。
「焦ったけれど、ようやくケイティは意識し始めてくれた。このチャンスを大切にしないと」
領地視察、もとい旅行の計画書を引き出しから出して机に広げた。
王都から領地まで行く経路の休憩ポイントから、領地についたあとの屋敷での過ごし方やデート計画が書かれている。どんな状況でも対応できるよう、パターンは複数用意しているという徹底ぶりだ。
「どうしたらケイティの心を掴めるのだろうか。早く、抱きしめたいな」
瞼を閉じて、愛しい人の姿を思い浮かべる。
ケイティ本人は美人ではないと自己評価を下しているが、シリルという壁がなければ、縁談が続出したであろう可憐な容姿をしていた。
艶やかな焦げ茶の髪はチョコレートのようで、杏色の瞳は蜜を煮詰めた飴玉のようで、照れるとほんのり色づく頬は桃のようで、微笑む表情すら甘くていつも吸い寄せられてしまう。声は凛としていて、紡がれる言葉にはいつも心が込められている。仕事も有能で、彼女のフォローには助けられている。
そのすべてを永遠に自分のものにしたい。
いつも片手でそっと紳士的に触れている程度に留め、爽やかな青年を演じているが、心の内は年頃の男らしく色々と渦巻いていた。
ケイティが好きすぎて、些細なことですら傷つけたくなくて、これまであまり強引にいけなかった。彼女が有能すぎていつも問題は自分の力で解決してしまい、男らしく助太刀できるチャンスもなかった。
だが今回は違う。脱ヘタレを目指し、自ら勝負に出ると決めたのだ。
シリルは瞼を開けて、改めて計画書に抜けがないか目を通した。