79・出会ったら別れなければいけないという世界の仕組みこそを壊せたらいいのにね。
「え、どういう、こと……」
「どうもこうも、あんたたちはダンチのおばちゃんなんだろう?」
ピンクのおばさんが、わざとらしくため息をつく。
「いつまでも、ここには居られないってことさ」
マダム・フロリーヌも、やれやれといった様子で瑞恵を小突く。
「ゲームをクリアしたあんたたちが帰るためには……」
「あんたたちの前から、こっちの世界が消える番だねえ」
きょうの晩御飯は、ほっけ焼いたやつだねえ、と同じ気軽さでマダム・フロリーヌが言う。
戸惑う瑞恵のエプロンの端を、橋田さんがぎゅっとつかんだ。
「ねえ、瑞恵さん……井戸端会議のおばちゃんが……減っているわ!」
つい今しがたまで、10人いたはずのおばちゃんが、9人になっている。
「え、どうして、あれ、8人しかいない……」
まばたきするごとに、目の前のおばちゃんたちがひとり、またひとりと姿を消していく。
「増幅よりもおいしいパンをこしらえた、あんたたちのことは忘れないよ。ありがとね」
「「パン屋の奥さん!」」
ふっくらとした笑顔を見せて、パン屋の奥さんも消えていく。
「じゃ、あたしたちも行くかい」
「おっと、異世界小説ってやつは、きちんと送ってくれよ」
マダム・フロリーヌとピンクのおばさんが、憎たらし気な視線と笑い声を残し、消えていく。
「うそでしょ、こんな……みんな、いなくなっちゃうなんて……」
瑞恵は膝から崩れ落ちた。
小さなカズと、ニコラと、ぴったり視線が合った。
「カズとニコラは、行かないわよね? 団地でおいしいもの、食べるでしょ?」
「きっと食べに行くよ。だからそれまで……ばいばい!」
カズが手を、大きくぶんぶん振り、
消えていく。
「そんな、カズまで!!! ねえニコラはだめよ、行っちゃだめよ。団地にはニコラ好みの食材がたんまりあるんだからね!」
瑞恵はぼたぼた涙を流し、きょとんとしているニコラを抱きしめた。
「ニコラ、ミズエ、だーいすき。ハシダ、だーいすき」
ニコラは泣いている瑞恵と橋田さんをなぐさめるかのように、にっこりほほえみ、そう言った。
「ニコラ行かないで、お願い! あたしたちも、あんたが大好きだから!!」
瑞恵は必死で叫ぶが、腕のなかのニコラの、やわらかな手応えが、
かすみのように儚く、薄れていく。
「ミズエ。ニコラ、だんち、だーいすき」
「「ニコラーーーーー!!!!!」」
瑞恵の腕から、ニコラの姿が消えた。
◇
気づけば瑞恵と橋田さんは、団地の301号室、瑞恵の家の居間にいた。
「橋田さん、あたしたち、帰ってきたのね……」
「うん……。あたしたち、ふたりきりで……」
しばし、茫然とするふたり。
長い夢をみていたような心地だけれど、
これは夢じゃない。
その証拠に、ふたりは、お互いが抱えている喪失感を、とてもよく分かっていて。
「あ、スライム仁丹糖衣Zの鍋は、どこかしら……」
「あれがないと、せっかくお別れしてきた意味がないものね……」
なんとか口だけ動かすが、立ち上がる気力が湧かない。
「とりあえず、テレビでもつけようか……」
「うん……」
瑞恵が腕を伸ばし、リモコンを手に取る。
テレビの、電源を入れる。
「……!! み、瑞恵さん!!」
「どうしたの橋田さん。ニコラロスもふっ飛ぶような、すっとんきょうな声出して」
「テ、テレビがついたわ!」
「だって電源入れたんだもん。そりゃつくでしょ」
「そうじゃなくて! 異世界では電波は入らなかったじゃない!」
「そういえば! え、ということは……」
瑞恵は立ち上がって、ベランダの窓を開ける。
3階の窓からの、見慣れた光景が広がっている。
「あたしたちが、いた世界だ! 団地ごと、戻ってきたんだ!」
「瑞恵さん、テレビテレビ!」
橋田さんがぷるぷる震える指先を画面に向けている。
『新型感染症、ついに特効薬 臨床試験で効果確認』
大活字のテロップが、画面に踊っていた。
『今年初めから世界で猛威を振るっていた新型感染症、多くの製薬メーカーがワクチンや治療薬の開発に力を注いできました。……社が開発したS-RIMEは臨床試験で効果が認められ、異例のスピードでこのほど承認が下されました。来月にも、……で量産体制が組まれます』
キャスターの声も、心なしか興奮に上ずって聞こえる。
『なお、S-RIMEの副作用としては、服用後2、3日、舌が青く染まることが確認されていますが、これは症状の回復とともに徐々に消えるので心配ないとのことです』
「これ、スライム仁丹糖衣Zのことよね、橋田さん」
「そうよね、瑞恵さん。糖衣とは言ってないけど……」
『開発リーダーのマ・ドーム・風呂利氏によると、「子どもでもいやがらずに飲めるよう、はじめから糖衣ありきで開発したところ、糖分との反応がきっかけとなり研究が進んだ」とのことです』『いやあ、そんな心遣いが、研究の突破口となるとは驚きですね』『そうですね。共同研究者の諸句木ピー子氏は「大いなる計画は、いちばんよわき者を助ける気持ちがあってこそ成し遂げられるのだ」とコメントを寄せています』『いやあ、なんだか、アニメのヒーローみたいですね』
「なにこれ……マダム・フロリーヌとピンクのおばさんのことよね、橋田さん」
「そうよね、瑞恵さん……ちゃっかりしてるわねあのふたり。しっかり、物語の主人公になっているじゃない」
「あたしたちの世界で、中二病ごころを満たしているわね」
「もう、異世界小説いらないんじゃない?」
「そうかもね。でも、それじゃあ……」
「あたしたちが異世界へ行く理由が、ほんとうになくなっちゃう……」
瑞恵と橋田さんがうつむいたそのとき、
『ピンポーン』
玄関のチャイムの音が、ひときわ大きく響いた。
もう少しだけ、続きます!




