75・なんでもいいけど、早くしないとバララがしおれる!
「おい、ショッキング。はやくしないと、せっかく取ってきたバララがしおれちまうよ」
ピンクのおばさんの陶酔に水を差すように、マダム・フロリーヌが現実的な声を上げる。
マダム・フロリーヌが開いて見せたボストンバックにぎっしり詰まったバララは、たしかにしわしわとしおれかけている。
それを目にするなり、ピンクのおばさんは乙女モードを一瞬でかなぐり捨てた。
「おっと大変だ。そんなわけでパン屋の奥さん、こいつに増幅をかけてくださいな。こいつを煮詰めたシロップと、スライム仁丹を混ぜると、『その世界でいちばんの流行り病の特効薬』ができるんだよ」
「特効薬!! 聞いた、瑞恵さん!」
「もちろんよ、橋田さん!」
瑞恵と橋田さんは、ピンクのおばさんに駆け寄り、その手を握った。
「ありがとう、ピンクのおばさん。あなたのおかげで、団地は救われるわ」
「瑞恵さん、あたしたちの団地だけじゃないわよ。世界じゅうが救われて、あたしたちまた自由に、お茶したりお買い物したりできるわ」
「橋田さんのカルチャースクール通いも復活できるわね!」
「そうね。あ、なんか涙が出るくらい、うれしいかも……」
瑞恵と橋田さんの指先に力がこもる。
「……なんだい、あんたたちの世界でも流行り病が幅をきかせているのかい?」
「そうなのよう、あたしたちもう困っちゃって」
「集まっちゃいけないって言うしねえ」
「大声でしゃべるなって言うしねえ」
「おすそ分けとかも、しにくくなっちゃったもんねえ」
「ふうん。ずいぶんな流行り病だね。だけど、あたしたちの『大いなる計画』は、あんたらの世界のためじゃないんだけど」
「「え! そんな!!」」
瑞恵と橋田さんは、ピンクのおばさんの手を思わずぎゅうっとつねる。
「痛い痛い! 考えてもみなよ、あんたたちがやってくるなんてあたしらは知ったこっちゃないんだよ。この世界の流行り病の終息が、あたしとフロリーヌの『大いなる計画』なのさ」
「橋田さん、意外とちゃんとした『大いなる計画』だったのね」
「てっきり、大それたのは名前だけだと思ったわよね」
「だけどこの世界、病気が流行っている様子はないわよね?」
「あっちもこっちも密に、楽しくやっているものね」
「ピンクのおばさん、そっちの病気って、そんな大いなるものじゃないんでしょ。今回はあたしたちに譲ってよ、ね、この通り!」
「何言っているんだ。ダンチの流行り病がなんだか知らないけどね、こっちはこっちで大変なんだよ」
「そうなの? どんな病気なのか教えてよ」
「そうね。教えてもらえれば、あたしたちが解決できるかもしれない」
「そうよそうよ、増幅魔法の代わりに、りんご天然酵母でパンをふくらませたみたいに」
「……ショッキング。教えてやりなよ。これがどんなに大変な、不治の病なのかを……」
マダム・フロリーヌが重々しく、口を開いた。
「いいのかい、フロリーヌ」
「ああ。ついでに、あたしたちも罹患者だってことを……」
「え!? そうなの? ちょっと、マスクしてよっ」
にわかに慌てる瑞恵。
「ふん、この病にマスクなんか意味ないさ……」
「橋田さん、聞いた? マスク、意味ないんだって」
「それは確かに、あたしたちのところの感染症より、強力なのかも……」
「「その病の名は……」」
マダム・フロリーヌとピンクのおばさんは、覚悟を決めたように頷き、震える声で口にした。
「チュウニビョウ……」
◇◇◇
チュウニビョウ。
それはむかしむかし、異界の者からもたらされた病。
この病にかかると、
魔術師ではないのに自分は魔法が使えると思いこみ、今のところ魔法が使えないのはまだ本気を出していないからだとさらに思い込んだり、
貴族ではないのに本当は高貴な出自だと思い込み、生き別れになった「ほんとうの母さん」を探す旅に出ようとしたり、
魔素ゼロ地帯でも自分だけは何かを感じ取れると言い張って無意味に眼帯をしたり、みんなが憧れる光の剣をぼろくそに言ってみたりと、
とかく面倒なヤツになるのだ。
「この病に子どもたちがかかると、ややっこしくって大変なんだよ」
「だから、おばちゃんを代表して、この病を封印しようと思ってね」
マダム・フロリーヌとピンクのおばさんは、はあっと大きなため息をついてみせた。
「まさかほんとうに、中二病だったなんてねえ、瑞恵さん」
「ねえ。中二病なら、封印する必要なんかないわよ」
「瑞恵さんの言う通りよ。時期がくれば、自然におさまるから」
「中二病は、大いに結構な病だもんね!」
「え、瑞恵さん、そういう理由?」
「自分が、物語の主人公になれる病気でしょ、それ。楽しくって最高じゃない。青春、ばんざーい!」
「……うーん、楽しいのかしら……自意識過剰で、たいへんそうだけど……」
「マダム・ミズエは何にもわかっちゃいないね、ショッキング」
「そうだとも、フロリーヌ」
「チュウニビョウは、時に、激しい後遺症を残すんだよ……」
「その名も、クロレキシっていうな……これに、苦しめられるんだよ……」
「いいじゃない、黒歴史。漆黒の夜空に浮かぶ、星の瞬きのような歴史のことでしょ。青春、ばんざーい!」
「いい例えねえ。そうよそうよ、おばちゃんになれば、黒歴史だって鮮やかな思い出よね、瑞恵さん」
「ショッキング、このふたりはどうも、青春を美化しているねえ」
「ちっ、わりといい青春時代を送ったんだろう。そういうおばちゃんは、チュウニビョウの恐ろしさを知らないんだよ」
「お前たちのような、恵まれたおばちゃんには……あたしたちの気持ちなんて、わからないだろうねえ」
マダム・フロリーヌとピンクのおばさんは、ぎりぎりと歯ぎしりしながら瑞恵と橋田さんを見ている。
「もう、マダム・フロリーヌいったいなんなのよ」
「だーかーらー。あたしはたった今、罹患中なんだよっ」
「え? 中二病に??」
「そうだよっ。わるいかいっ」
「悪くないけど……」
「おばちゃんなのに……」
「ほら、そういう反応をする! だから嫌なんだよ、青春に比較的恵まれたおばちゃんはっ」
「い、いいんじゃない? 若いってことで」
「そ、そうよ。中二の心を持つマダムなんて、そうそういないわ」
「くぅっ。慰めは不要だよう……あたしたちの『大いなる計画』の前に、情けが無用であるように……」
「中二病っぽいせりふが出たわね、橋田さん」
「ええ。不要と無用、さりげなく韻を踏んで、悦に入っているわね」
「とにかくそんなわけで、特効薬はあたしたちの世界のものだよ。はい、帰った帰った」
「帰れるわけないでしょうが。そんなしょうもない病気のために、特効薬を無駄遣いして!」
「無駄遣いとはなんだい! こっちはこっちで一刻を争っているんだ!」
ヒートアップする瑞恵とマダム・フロリーヌに、橋田さんが割って入った。
「ねえ、マダム・フロリーヌとピンクのおばさん。中二病の特効薬なら、あたしたちの世界に……団地にあるから、それをお贈りするわよ」




