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6・おばちゃんは常に、お弁当とおみやげの心配をしている。異世界まで来て何やってるんだと言いたくなるけど、そのコミュ力に全人類は助けられている。

翌朝。

瑞恵はタンスから引っぱり出した服が散らかり放題のなかで、茫然と突っ立っていた。


「長い旅なら動きやすくなくちゃいけないし、でもヨーロッパに行くならそれなりにきちんとした格好したいし、戦争中ならおしゃれしている場合じゃないし……」


瑞恵の頭のなかで、自分は中世のヨーロッパへ行くことになっている。


そしてここはスイスでフランスからイギリスに旅すると考えている。


異世界だからスイスじゃないしフランスもイギリスもない、とは気づいていない。


勝手に思い込んだことを疑わないのが、おばちゃんの強みだ。


「中世のおばちゃんってどんな格好しているのかしら。あ、クッキーやシチュールウの、なんとかおばさんみたいな?」


丸っこいキャップをかぶり、ネグリジェのようなワンピースの上に、白いエプロンをしたぽっちゃりおばちゃんの姿が浮かぶ。


「つまりアッパッパとエプロンでいいってことか」


茶色のゆったりしたワンピースの上に、エプロンを着てみる。


家にいる普段の瑞恵と、何一つ変わっていなかった。


「……。さすがに何か間違っている気がするわ……」


瑞恵は服選びをあきらめ、災害時用の非常持ち出し袋の中身のチェックにとりかかる。


「セーブポイントっていうのがどこにあるか分からないから、着替えも一通りはいるわよね」


下着、パジャマ代わりにもなるロングTシャツ、靴下。


簡易トイレ、マスク、ウエットティッシュ、アルミブランケット、懐中電灯(首吊り下げ型)。歯磨きセット、救急用品、軍手。


地震、台風、大雪、相次ぐ自然災害に、今や「非常持ち出し袋」の用意がないおばちゃんは、この団地にいない。


「えっとそれから、異世界に行くからには、日本のおみやげもあったほうがいいわよね」


瑞恵は、部屋の片隅にある「ちょっとした贈り物」用のかごから、千代紙のセットと、桜柄やあじさい柄の手ぬぐい、水引を模した箸置き、小さな桐箱に入ったこんぺいとうを取り出した。


できるだけ嵩張らないものを選んだが、


「でも外国の人は、やっぱりこれを着てみせると喜ぶのよねえ」


瑞恵は浴衣と半幅帯を袋に押し込む。


嵩張らないものという当初コンセプトは台なしだが、それは瑞恵のなかで既にうやむやになっている。


「あとは、お金お金! 異世界でも日本円って使えるのかしら。一応現金もいくらかはいれておくか」


さすがに、通帳や印鑑はいらないだろうと引き出しに戻す。


「あとは、きょうのお弁当と多少の保存食ね」


たらこのしそ巻きおむすびに、卵焼き、唐揚げを既に準備してある。


冷凍庫のイチジクのコンポートが保冷剤代わりだ。


おやつの時間には、いいあんばいにとけているだろう。


それから、ちょっと悩んだ末にアルミの小鍋とコンソメキューブ、ウナギのたれ、黒糖、塩コショウに粉末ハーブを混ぜた「自家製クレイジーソルト」の小瓶を袋に押し込んだ。


「瑞恵さーん。支度できたー?」


やってきた橋田さんは、紺色のアッパッパに白いエプロン姿だった。


お互いの姿を無言で3秒見つめ、同時に笑い転げる。


「橋田さん、その恰好の見本、クッキーとシチューのおばさんでしょ?」


「そうそう。瑞恵さんもでしょ?」


「だって、ほかにいないんだもの。参考になるおばちゃんが」


「じゃあきょうからわたし、ステラね」


「じゃあわたし、クレアね」


と言い合ったものの、どっちがステラでどっちがクレアか1分後には分からなくなり、瑞恵と橋田さんに戻る。


「ところで瑞恵さん、お弁当用意してくれているわよね?」


橋田さんが、期待を込めた目で瑞恵を見た。


「もちろん。あなたの分も、というか、道中何があるかわからないから、おむすびは10個用意したわ」


「うれしいー! その分、非常食や地図まわりのことは私に任せてね。分担して、荷物持ちましょう」


「ありがとう。え、地図なんてあったの?」


「夫が趣味で、古い地図を集めていたのよ。参考になるかなと思って。コンパスもけっこういいのがあったわ」


「へえ。すごいじゃない」


「あとは、シミュレーション用に異世界の小説も持って行こうかと思って。転移した人たちに何が起きるのか、参考になるかもしれない」


「それいいわね。ガイドブックみたいなもんね」


「あ、ヨーロッパのガイドブックも持って行くわね」


「ねえ、あっちには新幹線とか特急とか、あるのかしら」


「中世だとしたら、そもそも電車がないわよねえ」


「まさか歩き!?」


「それは無理でしょ。ちなみにフランス南東のリヨンからパリまで……高速鉄道なら2時間だって」


「中世なら、馬車かしらね。馬車に換算すると何時間かなんて、書いてないわよねえ」


「馬車ってちょっと乗ってみるのはいいけど、腰が痛くなりそうよね、長時間だと」


「わたし、先月ぎっくり腰やったばっかりなんだけど、大丈夫かしら」


ワシさんが見たら、いつまで続くんだと怒りそうなおしゃべりだが、今日に限ってはふたりとも、話に夢中で時間を忘れているわけではなかった。


団地を離れる決心が、なかなかつかないのだ。


「あーあ、そろそろ行かないとかしらねえ」


「瑞恵さん、えらい!」


「えらい!って……橋田さんも一緒に行くんだから。まあ、あんまり待たせても、ワシさんやボクさんに悪いし」


「そうね。ちょっと戸締まりだけ確認してくるわ」


「わかった。下に降りているわね」


「はーい」


感染症の特効薬を手に入れる旅。


そんな重大な使命は、瑞恵にはどうも実感が湧かない。


でも、ワシさんとボクさん、妙な2人組が瑞恵たちを待っていると思うと、早く行ってやらなきゃという気持ちになる。


瑞恵はリュックを背負う。


おむすびのぬくもりで、背中がほかほかする。


なんだか、赤ちゃんを背負っているみたいだ。


「さて、行きますか」


内階段を下り、1階に降りる。


各戸の郵便受けが並び、隣の掲示スペースには「季節の定例そば打ち会 中止」「第7団地一斉草取り 中止」「6号棟詩吟愛好会 中止」と、感染症対策で取りやめになったイベントの案内が所狭しと貼られている。


瑞恵の住む団地は地域活動が盛んだ。


そんな日常が、感染症で一変した。


そしていまは、瑞恵の立つ世界そのものが変わってしまった。


「瑞恵さん、お待たせー」


「橋田さん、ねえこれどうする。本当に、外、何にもないわよ。大丈夫かしら」


「この先が、地面なのかどうかも怪しいわね」


「ねえ。この団地だけ、空にぽっかり浮かんでいるような具合だわ」


「ここ、本当にスイスなのかしら」


「アルプスの山々の切れっ端も見えないじゃない」


どちらからともなく、2人は手をつないだ。


「まあ、行ってみるしかないわね」


瑞恵は、つないだ手に力を込めた。


「そうね。まずは、セーブポイントをみつけましょ」


橋田さんが、瑞恵の手をきゅっと握り返す。


薬を持って帰ることよりも、団地に戻ってくる担保を得るほうがふたりにとっては内心、重大だ。おばちゃんは慎重なのだ。


「瑞恵さんのお弁当、楽しみー」


「久しぶりに、一緒に外でお昼できるのね」


「私たち、むしろラッキーよね。一足早く、自粛から解放されて」


「考えようによってはそうよねー。よし、行きますか」


ふたりはせーので一歩を踏み出した。


ようやく団地から二人を出すことができた……。長いプロローグ、読んでくださって本当にありがとうございます。

さて、瑞恵たちは想像通りの異世界へ降り立つことができるのでしょうか!?

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