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35/80

35・癇癪玉を落としている赤い顔のおとうちゃんを見て、あ、きょうのお豆腐はもみじおろしで食べようかなって考えているんですよ主婦は。

ペリカン柄のパジャマを着た、恬子やすこ姫と高子姫、それにニコラ。


基経邸にさらわれた瑞恵と橋田さんの救出に3人が向かっていた、そのとき。


当の瑞恵と橋田さんは、強引にさらわれたことも忘れて、豆腐づくりに熱狂していた。


「そこ! 大豆のつぶし方があまい! つぶつぶがなくなって、世界がひとつになるまですりこ木を止めるな!!」


「そんなこといっても、腕がもう、くたくたでございます」


すりこ木を握る料理人の両手が、ぷるぷる震えている。


「ちょっと、そういうことは先に言って! 腱鞘炎になったらあとが大変でしょ!……そこのお兄さん! このお兄さんと交代!!」


さすが権力者の家、基経邸の料理人たちはヤスコちゃんの邸より数が多く、煮炊きの場も邸とは別に用意されている。


瑞恵に呼び止められた料理人が、ぷるぷる腕の料理人を横目でちらとみて、言う。


「わたくしはこの者より位が高い。この者の後釜というのは、いやはや、心やすきことでは……」


「はい出たー、男のつまんないプライド。力を合わせて料理するときに、後釜も先釜もないでしょ。すりこ木は、バトンなのよ! 順位は関係ない。落とすことなく、リレーしていくことに価値があるの」


「ふむ……たすきのようなものか……」


「このすり鉢のなかの、全大豆を、全料理人の総力をもって、全体的にどろどろにする。そして、理想の世界を実現する。わかった?」


位の高い料理人が、バトン……じゃなくて、すりこ木を受け取った。


「瑞恵さん、大豆で世界を語るなんて、やるわね」


「あたし、大豆教の教祖様になろうかしら」


「うーん、大豆教なら、もうすこしやせたほうが説得力あるんじゃないかしら……」


「……ひどい、橋田さん! たしかにあたし、ステイホームでふとったわよ。でもそれ、みんな同じでしょ?」


「ねえ瑞恵さん、あっちの方、つまみ食いしているけど大丈夫かしら」


「なにぃ。つまみ食いは主婦の特権だぞ! お邸の料理人がつまみ食うとは、100年はやい!」


「あれ、つぶしただけの生の大豆よねえ。おなか壊さないかしら」


「場合によっては壊すね。それ以前に、おいしくないわよ。煮ることでうまみがどくどく、引き出されるんだから」


「ですってー。そこのつまみ食い、いいことないわよー」


「そんなこと言われても、お腹が空きました」


へなへなと座り込む料理人。よく見ると、まだ少年のような幼さだ。


「あらあら、食べ盛りなのに、はらぺこで仕事していたの? まったく、基経ってひとはダメねえ。料理人は体力勝負だってわかっているのかしら。もうすぐ第一陣の豆腐ができるから、まずはわたしたちでいただきましょうか」


「そ、そんな。基経さまにお出しする前に、食べるというのですか」


「毒味したって言えばいいじゃない。そういえば、みんなが毒味と称して食べつくして、高子ちゃんは豆腐を食べられなかったって言っていたわねえ」


「そのとおりです、瑞恵殿」


「きゃっ、高子ちゃん。どこから降ってきたの」


「降ってはいません。あちらの辻を曲がって、地に足をつけて参りました」


「あら高子ちゃん、いらっしゃい。瑞恵さん、高子ちゃんとヤスコちゃんが着ているペリカンのパジャマ、あたしたちの寝間着よねえ?」


「あ、本当だ! へぇえ、あたしが着たときとは別物ね。ペリカンがスマートなシラサギに見えるわ!」


「この衣は、いと動きやすく、肌さわりもやわらかで、たいへんよろしい着物ですね」


「千鳥の柄が、少々雑に思えますが、それもまた愛嬌なのでしょう」


ヤスコちゃんが、胸元のペリカンをつまみあげて言う。


「一着イチキュッパ、しかも二着目半額のお品だから、まあそのへんはしかたないわよ」


「ミズエー、ぱすたつくってー」


「ニコラもいたの! よしよし、よく来たわねえ」


瑞恵も橋田さんも、親戚の子どもを迎え入れるいなかのおばちゃんの心境になっている。


「あら、そば持ってきたの。千田のおじさんのそば」


「ゆでじかん47びょう、だよ」


「えらいえらい。よく覚えていたわね」


「そこの方―、お湯を沸かしてくれますかー」


橋田さんが、鍋のそばの料理人に声を掛ける。


「非常持ち出し袋には、めんつゆも入れておいたんだけど……さすがにそれは持ってないわよね……。あら、ヤスコちゃんと高子ちゃんは、何を持ってきたの?」


「わたくしは、この、向こう岸が見える不思議な膜です」


「わたくしは、この、何も切れそうにないけれど掌のおさまりがいい、刃物です」


「ラップと缶切りか……。とりあえず、いいや」


「瑞恵さん、そばつゆはどうする?」


「ごまと味噌を摺って、豆乳と昆布だしでのばして、ごまだれにしましょ。それなら、ここにあるものですぐつくれるわ」


「ごまだれせいろね。いいわねえ」


「ダンチの方、お湯が沸きましたぞー」


「ミズエー、47びょうだよー」


「ニコラ、数えられる?」


「うん! いーち、にいー、さーん、よーん、よんじゅう……」


「はやっ。四十、はやっ。ニコラ、人生は、四十歳からがはやいのよ。……って、何秒か分かんなくなっちゃったじゃない! 千田のおじさんの、遺言が……」


「ちょっと瑞恵さん、不謹慎なこと言わないでよっ。45、46、47、はいオッケー!」


たっぷりのお湯で、おどるように湯がいた蕎麦を、勢いよくざるに上げる。


「さあそばたち、熱湯の次は、冷水ですかさず締めるわよ。暑かったり寒かったり悪いけど、この過酷な水責めが、きみたちを磨き上げるんだ!」


乱雑な言葉とは裏腹に、瑞恵の両手は井戸水にさらしたそばを、手早くやさしくもみ洗いする。


そばはまるで、光をまとったようにつやめく。


「ふう。千田のおじさん、あなたの志は忘れません……」


「だーかーら、瑞恵さん、おじさんご健在だってば!」


腹ぺこでへたり込んでいた少年料理人が、そばの輝きに目を丸くして、魅せられたように指を伸ばす。


「この香り、舌触り、のどをちゅるんと通りゆく心地よさ……! これは、そばのかゆとは、まったくちがうものでございます」


「そりゃそうよう。団地のおじさんが余生を掛けて探求しているそばだからね」


「わたくしは、この職人になりとうございます」


「ええー!? 蕎麦打ち愛好会に入りたいってこと?」


「ダンチの方、瑞恵殿。ごまだれというのは、これでよろしいか」


「うん、おいしい! ゴマも味噌も香りが立っている! ね、みんなですりこ木をリレーして作ると、おいしくできるのよ」


褒められた料理人が、照れくさそうに笑う。


「ではでは、みなさん、ごまだれせいろをいただきましょうー!!」


「……おぬしたち、何をしておる!!」


今か今かと豆腐を待っていた基経が、白い顔を赤く染めて、仁王立ちしていた。


「蕎麦がのびる!! あとにしてーーー!!」


時の権力者にまったくひるまぬ瑞恵の声をいただきますの合図に、みなつるっと、最初のひとくちをたぐった。


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