31・大相撲ヘイアンキョウ場所、突如開幕です。
瑞恵が口ずさむ「包丁研ぎ歌」の無自覚なおどろおどろしさに、思わず悲鳴を上げた侵入者。
しかし姿を現した悲鳴の主は、美しく可憐なお姫さまだった。
「あらまあ、本物のお姫さまじゃない……!」
同じお姫さまでも、まだ子供と言っていいヤスコちゃんよりも幾分長じてすらりと伸びた身体、色香を感じさせるそのたたずまい。
意志の強そうな瞳が、挑むように瑞恵を見つめている。
「怖がらなくていいわよ。あたしは団地から来た瑞恵。見てのとおり、ふつうのおばちゃんだから」
にこやかに自己紹介し、瑞恵が一歩近づくと、お姫さまはぴくりと後ずさった。
「え、なんで? あたしがこわいの?」
自身の存在だけで相手の警戒心を解くことに慣れたおばちゃんにとって、この反応は予想外だ。
「……その、刃物を」
「あらーごめんごめん。やだあたし、包丁、持ったままでした」
右手に握っていた研ぎかけの包丁を、そのへんにぽいと置く瑞恵。
その気安い振る舞いに、目を丸くするお姫さま。
彼女のまわりに、このような雑な所作をする者は見受けられないのだろう。
「お姫さまが、どうしてこんなところにいるの? そうそう、あなた、お豆腐は召し上がった?」
「トーフ! やはりあなたが、トーフの……!!」
「? やはりあなたが、って??」
「さきほど、使いの者がこの邸から、トーフというものをいただいて参りました」
「業平さんがお渡ししたトーフね。さらしに包んであったやつ」
そう。さらしに包んで水切りしていた豆腐を、贈り物用と勘ちがいしたんだかなんだか、業平は藤原家の人に、勝手にあげちゃったのだ。
「トーフとは、雪のように白く、露のようにはかなく、生まれたての赤子のかかとのようにやわらかな食べ物と」
「最後のたとえは、ちょっと微妙ねえ」
「しかし失礼ながら、業平殿は藤原家とは相容れぬ仲……いただいたものは、毒味をさせております」
「あらもったいない。あなたの食べる分が、減っちゃうじゃない」
「そのとおりです! しかもトーフに至っては、あまりの美味に『こんなにうまいものがこの世に存在するとはおかしい』『鬼との取引による食べものかもしれない』『あとから効く毒が入っているんじゃ』などなど、皆がいちゃもんをつけ、結局、わたくしは! 食べることが叶いませんでした!!」
唇をかみしめ、わななくお姫さま。
「なんてお気の毒なの! でもまあ、ごはんの一番いいところっていうのは、裏方に持っていかれるものなのよねえ」
「どういうことでしょう」
「親戚の集まりなんかがあるじゃない? おじさんたちがお酒飲んでワイワイやってる横で、あたしたちがおつまみ拵えているわけよ。まったくいいかげんにしてほしいわよねぇって言いながら、鮭の皮あぶったやつや、おこげおにぎり、野菜のはしっこをまとめたかき揚げ……料理のいちばんおいしいとこはおばちゃんたちが台所で食べてるのよ、うふふ」
「それは……それは……裏切りではありませぬか」
「なあに甘えたこと言ってんの。いちばんいいものは現場にある、決まってるでしょ」
「しかし、わたくしはひとくちも、トーフをいただけなかったのです。あわれだとは思いませぬか」
「じゃあ今から一緒につくる? 大豆とにがり、材料はそろっているわ」
「手ずから飯をよそうなど……興ざめをさそう、あさましきこと」
「こまったわねえ。この世界ではそういう感性なのか。じゃあおばちゃん作ってあげるから、とりあえず明るいところに行きましょ」
「いえ、わたくしはここにおります。業平殿やヤスコ殿にお目にかかるわけには……」
「どうして? あらもしかして、三角関係???」
瑞恵のワイドショーセンサーがぴくっっと反応する。
「サンカクカンケイとは何ですか? それも美味なるもので?」
「おいしいわよー。傍で見てる分には。ところであなた、お名前はなんとおっしゃるの?」
「高子でございます」
「タカイコちゃんね。お名前どおり、高貴で堂々としたお姫さまねえ。あなたにこんな、物置みたいな場所は似合わないわよ。ほらほら、出てきなさい」
高子姫は瑞恵に背中を押されて、扇で顔を隠しながらようやく塗籠から出てきた。
「しかし、侵入者がこんな可憐なお姫さまだとは。橋田さんたち、どうしているかしら。マダム・フロリーヌがせっかく身につけた武器『くさいいき』も役立たずね」
すのこをぺたぺた歩きながら、瑞恵はきょろきょろ、あたりを回す。
「おーい橋田さーん。業平さーん。マダム・フロリーヌ! ニコラー! ヤスコちゃーん! どこにいるのーー」
と、邸と邸をつなぐ渡り廊下からのぞく壺庭で、にぎやかな歓声が響いてきた。
「マダム・ミズエ! 何してるんだい、はやくはやくこっちにおいでよ!」
「うっ、くさい……マダム・フロリーヌ、どうしたのよ」
「くさいのはあんたが変な野草を食べさせたせいだろう! そんなことよりほら、スモウってやつを業平さんがとるよ、団地で人気のスポーツなんだろ?」
「へ? 相撲? なんで?」
ちなみに団地で人気なのは蕎麦打ちだ。中高年にとって蕎麦打ちは、一種の全身運動である。
「瑞恵さーん! さすが、ちょうどいいところに来たわね。いい、業平さん、こうやって天高く豪快に塩をまくのよ」
「橋田さん、なんで相撲やっているの?」
「あたしの武器、塩だったでしょ? あちこちに塩まいていたら、相撲を思い出したのよね。で、ニコラとヤスコちゃんの武器は、カラシナの枝でしょ。これは、行司さんの扇みたいだなーって。あら、お相撲とれるじゃないって思ったわけよ」
おばちゃんの連想は、時としてとんでもない結論を導き出す。
本人がこのように連想の過程を説明できることは稀で、橋田さんは極めて明晰なおばちゃんといえる。
たとえ、侵入者を探索するはずが、突然相撲をおっぱじめようとも。
「ねえねえミズエ、ニコラ、ぎょうじさんだよ」
ニコラが嬉しそうにカラシナをぶん回す。
「わたしが、るーるぶっくです」
「ルールブックじゃないわよ、行司さんの軍配って。審判は別にいるのよ」
「わたしが、るーるぶっくです」
カラシナのサヤを、ニコラが瑞恵にあてる。ぷちっと種がはじけ飛び、瑞恵のほっぺたをたたく。
「まったく! 悪い子ね!!」
「とにかく瑞恵さん、そうこうするうちに業平さんが、こちらの侵入者を見つけたわけよ。で、瑞恵さん来るまでヒマだし、お相撲でも取りましょうよってお誘いしたの」
「あたしが来るまでヒマって、みんなしてあたしをあの物置に隠していたんじゃない!」
「……そういえば。ねえ瑞恵さん、そちらのお嬢さんは?」
「タカイコちゃんよ! この子こそ、侵入者かと思ったんだけど……」
「ええ? じゃあいまにも相撲を取らんとす、業平さんがひっとらえたあの男の人はだれ?」
「……兄上!!」
高子姫が、顔を覆っていた扇をぽとりと落とし、叫んだ。
「……高子!!」
「……高子さま!」
業平と、向かい合う男が同時に叫び、こちらに駆け寄ろうとする。
「こら! 土俵際で戦いを放棄するとは何事か!! 敵前逃亡で銃殺刑だぞ!!」
橋田さんの大声に、男ふたりの動きが硬直する。
なんとしても、相撲を取らせたいらしい。
「業平殿……妹の前で恥をさらすわけにはいきませぬ。全力で、やらせていただくぞ」
「基経殿……わたくしが勝ちました暁には、高子殿をお訪ねすることをおゆるしいただく……約束ですぞ」
「よくわかんないけど、とりあえず座って見ようか、タカイコちゃん」
瑞恵の呼びかけに高子姫は慌てて扇をひろい、ため息をついた。




