2・異世界転移したんだが団地の中にいる限りそこはおばちゃんの日常だ。
瑞恵は、とっさに頭をかかえて蹲る。
横揺れじゃない。体が浮き上がるような縦揺れだ。かなり大きい。
「あ、チーズケーキ……」
揺れの中でふと気に掛かったのが、ドアの前に置かれたままのチーズケーキであることにかすかな笑いを覚え、瑞恵は気を失った。
◇◇◇
「うーん……」
目覚めた瑞恵は、辺りを見渡す。
クリーム色のカバーをかけたソファセット。テレビ。観葉植物のポトスの鉢。
目に入るのは見慣れたリビングの景色で、大きな揺れのあとにもかかわらず、落ちたものも割れたものも何一つない。
「確かに、揺れたわよね……?」
地震速報を確かめようと、瑞恵はローテーブルの上のリモコンに手を伸ばす。
いつも通りの感触。いつも通りのボタンを押す手応え。
「あら、つかない。停電かしら」
そういえば、心なしか部屋が暗い。さっきまで部屋中に満ちていた光が消え失せている。
瑞恵はベランダに寄り、ガラス戸の向こうに目をやる。
「……!!」
58年間生きてきて、初めて、比喩でなく腰を抜かした。
「なにこれ、どういうこと???」
道路を挟んで向かいに立つ、瑞恵が住むのとそっくりの団地が跡形もなく、消えていた。
それだけではない。
団地と団地の間を仕切るささやかな並木道も忽然と姿を消し、そもそも、道路がない。
もしも団地が壊れてしまったらなら、相応の残骸があるはずだがそれもない。
薄闇のなかぽっかりと、瑞恵の住む伏松町第7団地2の6の5の3号棟だけが残っているのだ。
「いや、うちが無事で、お向かいがなくなっちゃうなんて、そんな、おかしいし……」
ピンポンピンポーン!!
「瑞恵さん! 無事?」
ドアフォンの通話を押すまでもなく、ドアをドンドン叩く音と、橋田さんの声が響いてきた。
「無事よ無事!! 橋田さんは!!」
瑞恵はなんとか立ち上がり、玄関へよたよたと向かい、ドアを開けた。
「きゃー瑞恵さん! 久しぶりね」
「橋田さん! あなた、ずいぶん髪が伸びたんじゃない?」
「そうなのよう。美容院は休業要請から外れているっていうけれど、なんとなく足が遠のいちゃって」
「わかるわあ。私はカットはともかく、白髪染めが困って」
「確かに。セルフだと、どうしてもムラができるから」
「何回かに一回は、プロの手を借りないとねえ」
久しぶりに直に言葉を交わした高揚で、距離を取ることも忘れて世間話を始めてしまったが、同時に我に返る。
「ねえ、今、地震だったわよね?」
瑞恵は、橋田さんに確認する。
「そうよね?? 揺れたわよね?」
橋田さんも、瑞恵に問いかける。
「横に揺れたかと思ったら、ひどい縦揺れが来て」
「そうそう! ジェットコースターみたいな。最後に乗ったの、10年以上前だけど」
「昔、瑞生と創太くんと4人でいったわよね、華やしき」
「小さいローラーコースターがあったわよねー。創太も瑞生ちゃんも、大はしゃぎで」
「あれ、何年生のときかしら?」
「小学校の……3、4年生じゃない?」
「やっだ、じゃあ10年前なんてもんじゃないわね」
また話が脱線してしまった。
「とりあえず、入って」
瑞恵は橋田さんを招き入れる。これは「不要不急」じゃないだろう。
「ありがとう。あ、ケーキも食べましょう」
ドアノブに掛かったままの袋を手にして、橋田さんはにっこり笑った。
◇◇◇
ガスは難なく火がつき、瑞恵はほっとしてお茶の準備にとりかかる。
「久しぶりだから念のため聞くけど、ミルクたっぷり砂糖なしでよかったわよね?」
ダージリンの葉をポットに入れながら瑞恵は声をかける。
「その通り! さすが瑞恵さん」
「適当にお皿とフォーク出してくれる?」
「もちろん。ああ、紅茶のいい香り」
「隣の棟の佐伯さんがくれたのよ。なんか、通販で間違って大量に注文しちゃったんだって」
「あのひと、ほんとおっちょこちょいねえ」
「……隣の棟といえば」
瑞恵は、さっき見た信じがたい光景を即座に思い出す。
「ねえ、あなた、外を見た?」
橋田さんの前にカップを置く手が震えている。
「外? どういうこと?」
「あの揺れのあとに」
「ううん。すぐ、ここに来たから」
「あのね、私の見間違いだと思うんだけど、外が変だったのよ」
「変って?」
「何もかもが、消えているの。向かいの団地も、道路も、何もかも」
「……それはきっと、見間違いよ。いくら地震が起きたからって、そんなこと」
「そうよね。でも、そもそも、あれだけの揺れがあったのに、どうしてこの家は、何ともないの……?」
「……わたし、もしかしたら自分が立ちくらみを起こしただけかと、思ったんだけど……」
「私もそれ、考えた。でも、私もあなたも、同時に立ちくらみなんて、あり得ない」
瑞恵はそろそろと、ベランダに向かう。
その後をぴたりと、橋田さんがついてくる。
「やっぱり……!」
さきほどの光景は、見間違いなんかじゃなかった。
やっぱりない。これまであった、何もかもがない。
驚きよりも落胆が募る瑞恵の脇で、橋田さんが腰を抜かしている。
「やだ、うそ、どういうこと……?」
2人揃って、同じ幻覚を見るなんてこと、いくら気心知れた仲だからって、あり得ない。
「ねえ瑞恵さん。笑わないで、聞いてくれる?」
床におしりをつけたまま、橋田さんがつぶやく。
「あなたの話面白いから、笑っちゃうかもしれないわよ」
瑞恵は真顔で答える。
すると、橋田さんのほうが吹き出した。
それから、意を決したように話し出す。
「団地の周りがなくなってしまったんじゃなくて……この団地のほうが、別の世界に飛ばされたのかもしれないわ」




