『甘いモノ、お好きでしょう?』2
腕時計で時間を確認すれば、いつもより進んでいる時刻。当たり前だ。ロスタイムが多過ぎる。
これじゃあ、いつも乗ってるバスに間に合わない。遅刻にはならないけど、一、二本遅らせれば、バイト先に到着するのは十分前とか……そんなギリギリな時間帯になってしまうのだ。
いつも余裕を持って出勤してる自分にとって、それは、ちょっと精神的に焦りを感じさせられる事だった。
「本当に、今日はどうしたんでしょうねぇ?」
すぐ背後で低い声がして、私は驚きに跳ねてしまった。
馬鹿みたいに反応した私の肩に、結城さんは手をさりげなく乗せ、更には長身を折り顔を近付けてくる。
「ね? 花音さん?」
「は、はいっ……!?」
今にも背後から抱きすくめられそう。その相変わらずな至近距離に、強張る身体は再びボタンを押す事も忘れてた。
私はその場で固まる。ドアも開いたまま固まる。
「花音さんは、予定が狂うのはお嫌いの様ですね」
クスッと漏らされた笑いは、どこかからかう様相で。
耳元の低音で互いの距離が測れるだけに、多少の反論も面と向かっては出来る訳がなかった。
うつむき加減で、もごもごと喋る私。
「普通は嫌なもんです」
「私は好きな方なんですけど……」
「結城さんだけですよ、そんなの」
「そうですか……? 土壇場で裏切られたのを、奇計・謀略で覆すのって結構楽しいものですが」
「………。結城さんだけですよ……そんなの」
ただの“予定が狂うのは嫌だ話”から、内容が大分ハードな展開を見せようとしているのですが……?
裏切られ……だの、謀略で覆す……だの、結城さんはいちいち言葉のチョイスがおっかない。しかも最終的には楽しんじゃうの?
え。それってどんな日常――??
「でもね、花音さん。予定というのはあくまで未決定事項ですから。その時にならないと何事も分かりません。そうでしょう?」
結城さんの細長い指先が軽くボタンを叩いた。すると、素直にドアを閉めたエレベーターはすんなりと下降を始める。
「今度はノンストップで行ってくれると良いんですけど」
笑う結城さんに、私は頷きを返した。
――本当に。バス二本見逃しは、ちょっと勘弁してほしい……。許せるのは一本までだ。狂った予定を楽しめる結城さんとは違う私的には。
「真面目ですね、花音さんは」
動き出したエレベーターは順調に下降していた。
そんな中、急に結城さんがそう呟くものだから、私は訳が分からず、「へ?」と間抜けな声で首を傾げる羽目になった。
「大学生活もですが、勤労生活も。毎日キッチリ乱れの無い生活振りには頭が下がります。遅刻なんてした事ないのでは? やはり、そういう所に性格が現れるんでしょうねぇ。逆に疲れません?」
「な、なんでそんな事まで分かるんですかっ!」
まるで、私生活から性格全般までが全部バレているような言われっぷりだ。
「だって花音さん、大学やバイトがある時に家を出るのは、いつも決まった時間じゃないですか。あんなに規則正しい生活だと、授業のコマ割りからバイトのシフト体系まで丸分かりですよ?」
「なっ……」
そんな馬鹿な。いくらなんでもそこまで分かるわけないでしょ!
と、思いつつも……。
結城さんがやたら私の行動に詳しいのは、そこから来てるのだろうかと納得しそうになる。
だとしたら、私どんだけ行動パターンが単純単調なんだ……っ!
大学とバイト先の書店と自宅の三地点。ぐるぐる回るトライアングル行動。
それがバレているならば、「苦学生です」とか「たまの休みは友達(女子限定)と暇潰してます」とか……なんかそこまで知ってそうだ……。
結城さんは、赤くなったり青くなったりする私が面白いようで。
クスッと一笑した。
「あまり真面目一辺倒なのも考えモノですよ? 花音さんの人生は短いんですし、俗世を楽しめるのも今のうちですからね」
「はぁ……。それはまた過激なアドバイスをありがとうございます……」
まるで、私の寿命が短いのを断言してみました、みたいな言い方をしますね、結城さん……。
結城さんが言うと、よく当たる予言っぽくて、落ち着かない気分になる。
諭す様な口調が、それをより“らしく”していた。
「それに、何を思い悩んでいるかは知りませんが」
不意に声が近づく。もともと近かったのが更に近くなり、心臓が驚きに止まるかと思った。
頭にちらつくのは昨日の記憶。勝手に頬が熱くなって、私はますます結城さんの顔を見ることが出来なくなる。
これはマズイって。こんな顔見られたら、絶対誤解される……!
意識してないんだって事をアピールしなきゃいけないのに。あんなキス、別にどうってことないんだから! って思わせなきゃいけないのに。
これじゃあ、思い切り意識してますって言ってるのと同じじゃん!
「花音さん……。寝不足は禁物ですよ? 可愛い顔が台無しになってしまいますから」
「っ、あ!」
ぐっ、と両手で頬を挟まれ、強制的に顔を結城さんへと上向かされた。
決して力任せではない。だけど、内に籠められた力強さを指先に感じる。絡め捕られる様な感覚は昨日と同じで、私はまた自分の足元がふらつく事態になるのでは……と怖くなった。
結城さんの瞳が微笑む。
間近でそれを見てると抵抗なんてもの、すっかり忘れそうだった。
だってまるで、瞳の妖艶な色が、全部を壊しながらその奥に吸い込んでいくみたいなんだもの……。そのまま、目が離せなくなってしまう。
壊されるのは何だろう? 私の常識? それとも理性?
(壊れたら、私どうなるのかな……? もしかして結城さんと)
「……ほら、花音さん」
「……」
「ココ」
霞みがかった意識の向こうから近づく、低い声と吐息。うんと近づいて唇に触れかけた瞬間、それは、ふっと上に急移動した。
「ん!?」
まばたき一度の後、静かな空間にリップノイズが響く。
ちゅっ、という小さな音で、自分がいかに無防備にしていたかを思い知らされた。急激にクリアになる世界。
「油断大敵。寝不足とストレスは美肌の敵ですよね」
「~~っ!」
突如消えた気配は、生温かな温度を額に残したのだ。
(あ、あなたが一番油断ならないんでしょーがっっ!!)
はくはくと、金魚が息をするみたいに。口だけは立派に動いているのに全然言葉にならないのは、驚きとわななきがいっぺんに込み上げてきたからだと思う。
(なにやってんのー私! 今、思い切り雰囲気に飲まれてたっ!?)
しかも、一瞬キモチ的にも『結城さんならいいかな』って感じになってたよね!?
危険だ。結城さんの側はやっぱり色々と危険過ぎる。
知らない内に、自分が違う自分へと塗り変えられそうな危機感を感じた。
思考と行動の矛盾が、自我を引っ掻き回す。
(流されてばかりいないで、はっきりとした意思を表さなきゃ……いけない!)
じゃないと、この先何かとんでもない事が起こる予感がした。
「もう! 昨日から何なんですか、結城さんっ……からかわないでください!」
「からかう? 何がです?」
「何がって……。だから! 付き合ってもないのに、こ、こういう……ことっ……す、するとか!」
超至近距離で美麗な顔がただ笑う。しどろもどろの私を、ただ笑う。
艶っぽい唇が完璧な弧を描いて。何でも見透かす様な瞳が、楽しげに細んで。
相手の無言が少しこわい。一秒が、一分にも数十分にもなりそうな瞬間。
「それなら、」
結城さんの低音に、エレベーターのモーター音が重なった。
「付き合えばいい」
続いて振動。ドアが開く音。
何個も音があるそんな中、私の耳には彼の声だけが異様に大きく、深く、深く入ってくる。
「付き合えばいいんですよ」
ぞっとするほど低いそれは、甘い誘いというより、まるで命令の様だった。