『嫌なら抵抗を』4
「やっぱり貴女は……警戒心がある様で無い、無防備な方なんですね」
低い声は凄艶を隠さない。
扇情的、官能的……そんな表現にぴったり当てはまる声音。
それを響かせながら、じりじりと長身が距離を詰めてくる。
あっという間に、私は壁際に追いつめられた。
「ゆ、結城さん……?」
「だから、狙われてしまうのですよ?」
「へっ!?」
「……最初に忠告してあげたのに。そんなに攫われたいんですか?」
壁に追いつめられた体は、結城さんの腕で囲まれる。
完全に退路を塞がれてしまった。そして至近距離。恐る恐る見上げ……私は絶句。
「それに……駄目ですよ花音さん。あまり迂闊な事を言っては」
鋭い光を放つ綺麗な瞳。
それはまるで捕食者の目で。
こんな目を向けられた方はたまらない。体が勝手に動かなくなる。
たちまち私の体は微動だに出来なくなった。
「言ってしまった言葉は取り消せないのですから」
フッと笑みを漏らす結城さんに、背中がぞくりと粟立つ。言葉と共に美麗な顔が間近に迫ったからだ。
「場合によっては大変な目にあいますよ?」
羞恥と緊張で、ポットを持つ手に汗が集まってくる。
過去最上級の艶美さをぶつけられて、私の頭はクラクラした。
「貴女からお返しを頂けるなら喜んで。良いですか? さっきの言葉、本気で受け取りますよ?」
囁く言葉に甘さを含ませて。結城さんは目の前で微笑む。
どくん、と心臓が引っくり返った。
ごとん、とポットが床に落ちる。
砂糖が床に広がって、私の胸には困惑と恐れと熱さが複雑に混じりどうしようもなくなってくる。
何これ……。こわい? こまる? まさか……
「花音さん」
壁についていた結城さんの左腕が腰に巻き付いてきた。必然的にお互いの体がくっついて、抱き寄せられる形になる。
(うわああああ! ちょっとまってぇぇ!!)
声にならない声が自分の頭に響き渡った。
どうしてこういう時って、人間声が出せなくなるんだ! 口を開いても全く音が出てこないっ!
「嫌なら抵抗を」
細い指先が、顎に触れてきた。
結城さんが少し力を加えるだけで、私の顔は簡単に数センチ上へ向く。必死に合わせない様にしていた視線がバッチリあってしまった。
でもそれは一瞬。
結城さんの視線は、すぐにちょっと下に向けられる。
何を見ているのかは聞かなくても分かった。
私だって何にも知らない子供な訳じゃない。ここまでの展開と結城さんが放出してる色気で、次に何が起こるか位大体の想像がつく。
この人は私の唇を見てる。つまり、キスをするつもりなんだ……!
「ゆうきさ……!」
「何故逃げないんですか?」
なぜ!? だって、こんな風に抱きしめられてる状態じゃ逃げられないでしょ!
結城さんの腕の中でもがく私。それをケロッとした顔で押さえる結城さん。
……男性の力に勝てる訳がない。私の動きは全く意味を成してなかった。
「それは、本当に抵抗してます?」
掌が頬を撫でる。艶やかな低音とあたたかな吐息が唇に近付いた直後、私の視界はピントが合わなくなった。
「んっ!?」
瞼も体も動かなくなり、私は目を見開いたまま硬直。
(え……え!?)
自分の目に映っているものは何か、なんて考えなくても、今唇に触れているものがすべてを物語る。
ふわり、とあたたかな温度。感触。
ゆるゆる中途半端な抵抗なんて当然意味を成す訳も無く、私は、いともあっさり結城さんに唇を許す事になっていた。
「……っ」
何度も角度を変え重ねられて。重なるごとに唇に熱が生まれ、でもすぐに彼のそれに奪われる。
決して深く侵攻しては来ない重ねるだけのキスなのに、まるで奥底まで入り込まれる様な不思議な感覚には、思わず気が遠くなった。
キスは初めてじゃない。だけど、こんな身体の芯を脅かされる様なキスは、初めての経験だ。
何なのだろう、これは。
何故かどうしようもなく胸が切なくて、でもそれに溺れそうになる――。
「……花音さん?」
やっと唇が解放された時には、私は本当に溺れかけた後みたいになっていた。
一気に抜ける力。呼吸が上手く出来ない。
クラクラする頭とフラフラする足では自分の身体を支え切れず、情けなくもその場にへたり込んでしまう。
「大丈夫ですか?」
頭上で結城さんの声がした。
まだボーっとする中顔を上げれば、そこには崩れ落ちた相手をとても冷静に見下ろす結城さんの姿が。
「あ……」
「立てます?」
さっきまであんなに甘ったるいキスをしていた人とは思えない、何ともあっさりした物言いに、私のぼんやりしていた意識はそこで驚異的な回復をみせた。
(な……なに? いまの……っ!)
いたって冷静顔の相手と寸前までしていた行為が、生々しく脳に甦ってきた。
芯をも溶かす、甘くて熱いキス――。
結城さんの表情に悪びれも照れも無いのが、こちらの羞恥を倍増させる。これでは、あのキスはイレギュラーケースじゃないと言ってるみたいじゃないか。
あくまで普通のこと、と。
(……普通……あれが?)
顔が、全身が、有り得ない位熱を持った瞬間。
スッと差しのべられた、結城さんの綺麗な手。
嫌ではなかったけど、ほぼ条件反射で私の身体は逃げる様に後ろに傾いていた。
(え。 嫌じゃ、ない……?)
矛盾する自分のキモチは戸惑いを招く。
ほぼ強引に唇を奪われてしまったにも関わらず、私はまだこの人から本気で逃げる気が無い……とでもいうの?
「……ゆ、結城さん……」
「ほら。だから言ったでしょう? 送りますよ」
クスリと笑う瞳が、一瞬とても意地悪そうに見えたのは、気のせいだろうか?
それを確かめる間もなく、私は結城さんに床から引っ張り上げられた。
スリッパの足元が、散乱する砂糖のせいでじゃりつく。
不注意で(と言っても、半分は結城さんのせい!)汚してしまった事が気になり「どうしよう。やはりここは片付けなければ……」と思っていると、結城さんは優しい声音で、
「大丈夫ですよ」
と、言った。汚れた床は気にせずにと気遣ってくれる。
「ああ、それから……“こちら”は後日ちゃんとお返しします。それまではお借りして……」
そこまで言って、何が可笑しいのかクスクス笑い出す結城さん。
私は、自分が貸しておくのは砂糖なのかポットなのか、それともまた怪しい裏に導かれる様な“何か”を知らず貸しておくのか――。
確認しようとも、怖くて聞けなかった。
結城さんがひとり楽しげなのが、やたら気になる所なのに。
「……えっと……あの」
「花音さん、明日も朝からバイトでしょう? 土曜日なのに大変ですねぇ。長く引き留めてしまいましたから、ちょっと申し訳ない気がします」
肩を竦めて見せる長身のその姿。
結城さんの妖艶さは、いつの間にかどこかへ消えてしまっていた。
今、目の前で控えめな微笑みを浮かべている彼は、どこからどう見ても気品溢れる紳士にしか見えず、数分前の“あの情熱さ”など全くもって見つからない。
ほんの一瞬見せた気がした意地悪な瞳なんて、尚更だ。
どこにも、ない。
だからと言って、私は最初に抱いていた様な、超紳士なイメージを結城さんに再び持つことは無いだろうと思っていた。
あまりにも、プラスアルファされたイメージが強烈過ぎるからだ。……色々と。
謎めく結城さんは、一体何者なのだろう?
何を考えている……?
愛想が良くて、物腰柔らかで、料理上手な美麗なる紳士。
しかし、その実……
出会ったばかりの隣人女子に、過度なちょっかいやら、極甘キスを仕掛けてくる様な危険人物。
そして、笑う。
優しく。妖艶に。さらには、動揺する相手を見て……楽しげに。
その笑みに潜めているのは、何なのか……。
自分の部屋に送ってもらった後、私は一人ウンウン唸りながら頭を抱え、延々考えまくっていた。
考え始めたらキリが無い。彼は、謎だらけだ。
でも……いや、だからこそ、どうしても気になってしまう……!
(どうして、こっちの明日の予定を知っているの!?)
そんなくだらないプチ情報なんて、話した覚え……無い。
超能力者? 千里眼?
どのみち……ただモンじゃない事だけは、確かだ。
マズイ。
何か妙な予感めいたモノを感じた。第六感は鋭い方じゃないけれど。
(もしかして、とんでもないお隣りさんが引っ越して来ちゃったんじゃ……!?)
何度も思いだしてしまう唇に僅か残る鮮烈な甘さと温度に悩まされながら、私は眠れない夜を明かした。
昨日までこっそり想像しちゃってた、『素敵なお隣りさんと恋の予感?』――なんて、麗しいドラマ。
しかし、どうやらそんな想像みたいに“オイシイハナシ”にはならない感じがヒシヒシとして……。
(これからどんな顔して会えばいいんだ……!)
明日からの日々が、ちょっと複雑だ。