『手を出したら殺しますよ』3
***
翌日、目が覚めたのはなんと十時過ぎだった。
「……寝過ぎた……」
ぼんやりした頭で時計の時間を確認した私は、のそのそベッドから這い出る。
カーテンを開けると、朝の爽やかを少し通り過ぎた清々しい太陽の明かりが一気に押し寄せてきて、重い頭も幾分軽くなった模様。
惰性で出てくる欠伸を隠す必要はない。
独り暮らしの部屋を見渡してから、私は冷蔵庫のミネラルウォーターに手を伸ばした。
信じられない、と口から落ちる独り言。
ベッドの端に座りながら、昨晩、今の私と同じ位置にいた相手を思う。思わず枕を見下ろした。
(……結城さんには、昨日の私がこんな風に見えてたんだ……)
自分の寝姿を想像し、そこに重ねて。
(うわあ……。恥ずかしすぎるんですが。これ!)
病人を見舞うのとはまた違う。
目一杯泣いた後、一人は怖いと漏らした私に、結城さんは眠れるまでここに居てくれた。
駄々をこねる子供のお守りみたいなものだった。
だからだろうか?
戸惑いがちに微笑む彼の瞳が忘れられない……。
『怖い一日は終わりです。だから安心してください、花音さん』
結城さんに対しては逃げ腰ばかりの私が、涙の勢いに任せて彼の腕から離れなかったから……?
静かな口調で、結城さんはそう繰り返していたっけ。
確かに、自分がいつか迎える《死》という存在をあんなに間近に感じた日は今まで無かった。
大病も大怪我も縁の無かった自分にとっては、それは、知ってはいるけどずっと遠くの存在だったのだ。
ニュースになる程の大事故。誰もが感じた惨事。そこに渦中の人としていたかもしれない自分。
……そう。考えれば考えるほど、とても怖かったのは事実。
『どこにも行かないで欲しいって言ったら……困りますか?』
『行く気は無いですよ。他ならぬ花音さんの願いならば尚更。困るどころか大歓迎です』
そんな事を言ったら、少し笑った結城さんは、泣き腫らして重くなってきた私の瞼に、触れるか触れないかのキスをして。
『貴女が眠るまで此処に。何もしませんから、どうかご安心を』
琥珀みたいな綺麗な瞳を優しく煌めかせていた――。
(なんであんなに、泣けちゃったんだろうなぁ)
怖かったからって。色々な事に安堵したからって。あそこまで泣く事は無かったんじゃないの? 私。
(子供じゃないんだからさ……)
背伸びで軽くストレッチをしつつ、私は昨晩の私を反省する。
とはいえ。
自分のした行いを冷静に振り返るなんて、やっぱり無理だ。思い返したら、恥ずかしくなる事しかしてないじゃないか!
「……私ってば!」
次の瞬間、部屋着姿で私は身体を固まらせていた。
散々泣いて迷惑かけて。更には、部屋までついてきて貰った挙句に眠れるまでいてくれとか……。図々しいでしょ、やっぱり。
しかも、私……お風呂入ってたし! 結城さん部屋に置きざりにして、お風呂入ってたし!
(うわー。バカじゃないの私?)
何もしません、と言っていた結城さんを思い出すと、後悔やら何やらが押し寄せてきた。
彼がそんな発言をした時、私はすでにそういう事をやらかしていたのだ。
結城さんが本質的には紳士然な人だという所に、自分は随分救われていた……としか言いようがない。
普通なら、襲われていても文句を言えない状態だったのだから。無防備にも程があるってモノ。私は、隙だらけだった。
けれど、……昨晩の私達には何事も起きなかった。
そう。何も。
「……」
結構強引な所のある結城さんだけど、思えば、今までだってこちらの意を完全無視した様な行動を取った事は無かった気がする。
「……」
私が深く考えもしないでお風呂に入っている時、結城さんはこの部屋で正座し静かに待っていた。その姿を思い出して……。
あちゃー、と私は頭を抱えた。
私は彼を少し誤解しているかもしれない。謎も多く、何を考えているか分からない人だけど、いつもさりげなく私を気遣ってくれているのは確かなのだ。
だとすれば、私はもっと結城さんと向き合わなければならないんじゃないかな?
自分の胸にモヤモヤと残る、この微かな不機嫌さをちゃんと知るためにも。
一つの決心を抱えつつ、私は裸足で玄関まで行った。
玄関ドアについている小さなポストを開ければ、そこには私の部屋の鍵。
予想通りの結果は苦笑を誘う。
「やっぱりね……」
眠った私を見届けた後、結城さんはこの鍵で戸締りをして、そしてポストに鍵を落としたのだ。
こういう所が、実に結城さんらしい紳士具合だった。
「こんな時ばっかり……」
鍵を手にしながら出た言葉は、自分でも少し驚きだったけど。
でも、間違いない気持ちだった。
鍵がここにあるという事は、結城さんは自らこの部屋に再び入ろうとする意志がなかったという事。
当たり前だ。いや、普通はそうでなきゃいけない。
もしこの鍵を使って、彼が朝「おはようございます! 昨日はよく眠れましたかー?」なんて普通に入ってきたら、それこそ「きゃあっー! なにもそこまでしなくても!」って感じでしょう?
――だけど。
するかもしれない。って、私はちょっとだけ思ってた。結城さんならもしかして……と。
合鍵よろしく使っちゃう? みたいな。
ここまで来たら、恥ずかしいけど認めるしかない。
私は「自分は結城さんの特別なんだ」って期待してるのだ。
サラリと伝えられる口説き文句も、抱きしめてくれる腕も、触れてくる唇も。
私だから貰えるって。
一晩中そばにいてくれることを望んでいた?
何かを期待して待っていた? そうなっても良いと?
「何コレ。ずるい」
……微かな不機嫌さの原因に見当がついた。
私は、結城さんのこの当たり前の紳士さに腹を立てていて。
見知らぬ女性に感じた些細な嫉妬より、はるかに大きなもどかしい想いを持ち始めていることに気付く。
(なんで私ばっかりこんな振り回されなきゃいけないの……?)
一晩中ポストの中にあった家の鍵は、ひんやり冷たい。
私はそれを一度握りしめてから、鍵置き定位置である靴箱の上にそっと戻した……。
昨日の件も謝りたくて、身支度を整えた後に結城さんの部屋を訪ねた。
でも、チャイムを鳴らしても結城さん宅の反応は無くて、「そっか……外出してるんですね……」と独り言だけドアの前に置いてきた私。
――落胆していたんだと思う。そこから足を動かすのが重いっていうのは。
それってやっぱり、結城さんに会いたかったからなんだよね? 迷惑かけた事を謝りたい、なんて……言い訳。
本当は、ただ――。
「じゃあ……どうしようかな」
(もうお昼だし、駅前のファーストフードで軽く食事して……)
歩きながら、私は午後の予定を決めた。
お休みなんていつも部屋でゴロゴロしてるんだけど。
(あのお店に、行こう)
路地裏のカフェへ。
細い道の向こう、異国に迷い込んだみたいな雰囲気の静かな場所。
もしかしたら、そこで彼に会えるかも知れないもの。
恐らくあのカフェの常連客であろう結城さんに。
少し歩を速めて、私はマンションを出た。