『絶望と希望を天秤にかけて』12
素足に柔らかな“何か”が触れたのはその時だった。
「っ!?」
足元を見るとそれは跳ね、肩に乗ってくる。「なになに何!」払いのけようとした私の手をひょいとかわす、白い丸。
丸くて、柔らかくて、むにむに動く――
「だ、大福っ」
何故ここに!?
大福は、零さんの肩の上でしていた動きを私にも見せた。むにむに。むにむに。――何だ? なんなの?
それに、この子はどこから来たのだろう。零さんと一緒にいた子じゃないのは確か。あの子は零さんの記憶の一部だ。
「私は、あなたと話出来る?」
ダメ元で聞いてみた。
――――
大福の形が縦に伸び、次に平べったくなる。これ、頷いたと考えていいんだよね?
――ツ……カ、エ
「え?」
ロボットみたいな無機質で感情の無い、音。脳に直接突き刺さってくる響き。ツ、カ、エ。頭の中で反芻し、飲み込んだ。
『使え』
――ただの音が、意味を持つ言葉になる。
心臓ヘ熱い血液が一気に流れ込み、瞬く間に冷えて、全身ヘ散っていく。
(まさか)
「ねぇ……この人の魂を、自分の為に犠牲にしろとか、言わないよね――?」
大福の動きは変わらなかった。肯定の意、頭に響く音は『ツ、ナ、ゲ』。
繋げ――
何を? 聞く気にもならない。自分の命をそれで繋げろという事だ。……分かっている。
暖かだった温度が徐々に下がり、私はひだまりから影の中ヘ移った。でも冷風は吹かないし、寒さに凍える程でもない。それが逆に心を重くする。
出口は天国――選択の余地が無い方がよっぽど楽だと思った。
大福が肩の上で跳ねて、頬にぶつかって来る。ああ、これ……零さんと同じなのかな……? 急かされている?
「嫌だ、と言ったら……」
ぴたりと止まった大福は、右肩からノロノロと左肩ヘ移動した。そして、静かに。
(この子は指示は出すけど、強制はしないんだ)
自分で決めろ、と。右、左――取るか、取らぬか。
炎は欠片を落とし、また揺れる。私にもこの人にも、もう時間が無い。
ごくりと喉が鳴った。
生きたい想いや消えてしまいたい感情、それと後悔の念。他人の記憶に散りばめられていた様々を、弱く燃える青色が最後の力を振り絞って叫んでいる様に見えて、切なさにきつく目を閉じる。
『――――』
“誰か”が囁いた。
『いきるの』
『すすんで』
(あぁ……そうか。あなたは、)
――1分でも早く貴女を眠らせてあげたかったのでしょう。
――その“誰か”は、花音さんに無茶はさせたくないようですね。
自分の性質を知った日、結城さんが言っていた。
この人は、あの時私を心配してくれていた……“誰か”だ。
体を案じ、身を削ってでも救おうとしてくれる人……
根拠も証拠も無い。けれど、自信があった。
「――お母さ、ん」
悲鳴をあげながら崩れていく鉄の塊の奥で、私を拒否する大声が聞こえる。激しい怒気を見せ子供の戸惑いを利用し、巻き込まない様に。――最後のお別れは惜しむ間もなく、更には私の記憶から抜け落ちていた。
両親は自分の娘の真実を知ったのか、知ったなら何を思ったのか、誰にも分からないまま。
そしてあの結城さんでも、お母さんの魂の行方を把握出来ていなかった。
――まだ隠し持って? それとも、もう使ってしまった?
本能のまま奪い取ったもの。隠していたつもりも全くない。ただ透明者の性質がそうさせていただけで。
自覚があったなら選択しなかった。
でもそれも、理解が追いつく歳になったから思えるだけで――。
(私の中にずっと“居てくれた”んだ。そして私の身代わりを?)
「オレンジ色を出すと小さくなる……。私、これまで――」
左肩から右へ戻った大福は、むに、と形を変えた。肯定。
現実は、残酷だ――。
体に溜まった毒素を、他人の純心で浄化する。
私に一部摘み取られた魂の持ち主はどうなる、その分の寿命が短くなるのか、と結城さんにぶつけた疑問の答えが見えた。
目の前で弾ける橙色が、まさにそれだった。
爆ぜる炎の欠片が花火みたいに綺麗な理由は、混じり気の無い純粋だから。私は輝きを指で弾いて、自分の未来ヘ変えている。
「一度奪ったものを、もう一度、今度は自分の意志を持って……取らなきゃいけないの? 生きる為に――」
守られてきた。自分がここまで来れたのは、全て両親の、母親のおかげだった。
「こんなの……」
故人に恩を返す事は出来ないのだ。だからせめて、誠実に生きるのが唯一だと思っているのに。
――時間が無い。もう、残っていない。
「選択肢なんか無いんじゃん……。私が嫌だって言えば、お母さんがしてきた事を無駄にするどころか、否定するだけで……。だけど……」
結城さんの言葉が頭の中でぐるぐると回る。
人間は矛盾している、と。
悲しみの裏に喜びが。怒りの奥に優しさを。表裏一体の幸福と不幸。二律背反。延々と繰り返す。生きていく為に受け容れなければならない。
私は、透けてきた両手を見つめた。
……そして、炎に手を伸ばす。
「お母さん」
音の無い世界に音を求めた。たった一言でいい。忘れかけている優しい声で、
(私の名前……呼んでよ――)
ぴりぴりと指が痺れ、水に潜っていく感覚。
冷たくないのは、きっと、涙の海だから。