『絶望と希望を天秤にかけて』8
金木犀の香りにはリラックス効果と鎮静効果があると、朋絵から聞いた覚えがある。ここに植えているのもその効果を期待してなのかもしれないな……と思いながらオレンジの花を探したけれど、見える範囲内には金木犀の木は無くて。
(どこに咲いてるんだろう。さっきより香りが強くなってる……?)
首を傾げたところで、車椅子を押す看護師が近付いてきた。瞬きを繰り返して滲んでいた涙を誤魔化す私。若い男性看護師は、ちょうどベンチの前に来たところで患者に声をかけた。
「千花さん、今日は彼氏来ないんですか?」
「っ!?」
(え!? ちか……?)
「彼? ああ! 零君のことか。違うよ~、零君はカレシじゃないよ」
「ち、違うんですか!」
「うん。友達……かな?」
「いや、その言い方。本当は彼氏なんでしょう」
「いやいやいや」
ちかさんは楽しそうに笑う。
痩せて折れそうな体、怖いくらい白い肌、艶のない黒髪――見ただけで分かる闘病生活の長さ。
でも、彼女の笑顔はそんなものを感じさせない強さがあった。輝いている。誰が見てもそう言うと思う。
「製薬会社の営業さんでしたっけ? 歳上のイケメン彼氏かぁ……勝てる気がしないですねぇ……」
「え、何で零君の事そこまで知ってるの。あと彼氏じゃないから」
「みんなウワサしてますよ。千花さんの彼氏かっこいいって」
「だーかーらー! 違うってば」
目の前で続く会話。私は見えない存在らしい。思った通り、ここは“誰か”の記憶世界だった。
“誰か”――
(零さん……)
二人の後ろに、濃紺のスーツ姿の零さんが立っていた。黒いネクタイ、肩には……大福。製薬会社の営業なんて肩書きで病院に出入りしている、“死神”が。
『アイツ今、どさくさにまぎれて千花の髪触らなかったか?』
眉を顰め、ネクタイを外そうとする零さんに大福が跳ねて反応する。「やめろやめろ」と言っているみたいに。
『あ~ハイハイ、行くって』棒読みで零さんが返すと、大福はべちべちと何度も頬に体当たり(体当たり?)し始めた。――あれは……怒ってるの?
『わっぷ!? ちょ、やめろって……粉が! わかった! 分かりましたよ!』
(真面目に大福と一緒に行動してたんだ。雰囲気も全然違う……チャラく見えない)
「明日もこれくらいの体調がいいな。花火大会、屋上で見る約束なの」
「ハァ……彼女ナシ野郎にリア充自慢っすか……」
「大事な話があるからドタキャンされたら困るけど」
「花火見ながら大事な話って……プロポーズでも?
「ち、違うっ! いきなりそこまで飛ぶ!? プロポ……違うからね!? 変なウワサ流さないでねっ」
ちかさんの顔が真っ赤になった。
『おい、慌てすぎだろ。また変に誤解されるぞ』
あたふたする彼女に零さんは苦笑して。
『ちゃんと行くから。……最後の花火だしな』
優しい表情で呟き背を向ける。物哀しげな後ろ姿はまだ、“辻褄合わせ”が起きる事を知らない――。
肩で跳ねる大福と『あ? 確認? 新生児集中治療室だろ。ん~……俺、あそこの仕事苦手なんだよなぁ』喋りながら、零さんは去って行った。
その後、零さんと入れ替わる様に友人らしき女性が加わり、ちかさん達の会話は更に賑やかになる。
――“噂の彼氏”の話は出てこない。
たわいない日常話で盛り上がる三人は、まるで自分と朋絵と田所さんみたいだ。私達も周りからはこう見えているんだなと思うと、またあの日に戻れたら……なんて考えてしまい、さらに寂しさが増す。
ちかさん達は笑いながら病室に戻っていった。あっという間に目の前から皆がいなくなり、私は穏やかな庭に閉じ込められていく妙な感覚に包まれる。
泣いている訳でもないのに視界がぼやけて、見えづらくなる談笑中の人や歩いている人。溶けも消えもしない私。いつまで、こうして、ここにいるのだろう――。
(私は……)
「花音ちゃんさ、なにやってんの?」
「うぎゃっ⁉ は、え? れ、零さんっ⁉」
ぬっ、と突然隣に現れた影に変な声が出た。なんの前振りもなくベンチの端っこに出現したは、“さっきの零さん”ではない“今の零さん”で、彼は深く深く項垂れていた。髪に隠され表情は見えない……。
「ここ、俺の記憶ん中なんですけど」
「はぁ……やっぱり」
「結城と手を組むとこんな所まで来れるようになるわけ? トウメイさんって凄いね、もう“透明神・トウガミさん”じゃん」
「何ですかそれ。変なあだ名つけないでください」
「……はは」
全く感情がこもっていない低い笑い声と、揺れない肩、髪。きっと彼は無表情でいる。
それが分かると気不味くて。零さんも同じなのか、少しの間沈黙が流れた。
「この時の事……ずっと後悔してる」
「……」
少ししてから、零さんは言った。項垂れたままなので、声はすぐ地面に落ちてしまう。集中しなければ聞き逃しそうな小ささだ。人通りが途絶えて良かったと思った。
「千花は俺がいた事も知らなかった。ま、当然だよね。姿消してたんだし。だからこの日ここには、アイツらしか居なかった」
「後悔……。会えば良かったと――?」
「そりゃあ……」
(看護師さんに嫉妬してたんだよね。大福にぼやいてたもん。あと、花火大会『行くから待ってて』って、ちゃんと伝えたかったんだ)
ガシガシと頭を掻き、零さんは舌打ちした。
「最後と分かってたら、無理してでもそうしたよ」
「――最後って……まさか」
「千花が死ぬのは“明日”だ。正確に言えば“明日の13時17分”。――俺が病室に着く二十分前に、結城は千花を部屋から連れ出した」
「は、花火大会は!?」
「見れるワケねーじゃん。死んでんだぜ? 魂《千花》はあの男がさっさと処理しちまったしな」
「そんな……」
辻褄合わせは二人の約束の日に。
「俺一人で見たよ」
それは《あるはずだった日》――。