『絶望と希望を天秤にかけて』6
しばし睨み合い。零さんは結城さんを殴るのを諦めていない様で、掴まれている拳をおろそうとしなかった。ざり、と砂が鳴る。僅かに彼の右爪先が後退した。
「誤差は最小限に抑えています。もともと人間は自分の死亡日を知らないものですし、時間をめぐるトラブルなど起こりようも無い」
「そんな事務的な問題じゃねぇんだよ……。アンタらにしてみれば、たかが数時間……数十時間でも、千花には意味がある残り時間だった!」
「条件はみな同じです。対象者の時間喪失分へ対する賠償は、充分配慮されている。そういうシステムだと零も理解していましたよね? シンジョウチカは美しい最期に憧れていたが、あのまま寿命通りいけば――」
「やめろ……」
「元担当者ならば一番分かっていたはずです。あれが“最善”だったと。むしろ彼女にとって救いになったかもしれない。それなのにお前は、」
「やめろ!」
零さんの叫び声が公園に響き渡った。
「…………ちか?」
記憶世界から脱出する時に聞いた名前だ。零さんが、手を伸ばして必死に呼んでいた名前。
「その人は、零さんの」
「零が絵空事に取り憑かれるきっかけになった案件です」
「取り憑かれるって……」
結城さんの言葉が、頭の中に蘇る。
――『死』は取り消せません
――いくら足掻いても、『死』は取り消せない
(零さんが生き返らせようとしてる人……)
ちか――“しんじょう ちか”
恋人なのかな? と想像してみたり……。優海さんとの会話中に時折見せていた顔が、今になって、彼を知る重要なヒントだったのかもしれないと気付く。
けれども、そのほとんどを私は覚えていなかった――。
「醜悪なトラブルでしたね……。零。お前は、自分が“かの日の悪魔と同じ問題”を繰り返しているという自覚はあるのでしょう? 周りを巻き込み繰り返す事が、どんなに無意味で、無駄なのかも」
「は? だったら教えてくれよ、生きる意味を知らねぇ“造られた死神”が、さも分かったカオで人間の寿命いじくり回してんのは、どういう意味があんのかをさぁ」
「……」
「要らないと捨てられた寿命を拾って使う――何が悪い? こっちはお前らの真似してるだけじゃん。ギブアンドテイク――辻褄合わせシステムと同じだろ」
「…………」
結城さんは無言で零さんの腕を捻り上げた。ぐっ、と呻いた零さんが、眉を顰めながら口元に笑みを浮かべる。こんなの大した事ないと言いたかった様だが、痛みを必死に耐えている裏側が少し見えた。
……驚いたのはその後。
結城さんが、物を捨てるみたいに零さんを投げたのだ。
成人男性の体が、軽いアクションで2メートルくらい飛んだ。
「ちょっ、結城さん――」
風になびいた前髪の奥に見えた結城さんの瞳は青く光っていた。「っ!」それから橙に変わり、すぐに琥珀へと落ち着く。
地面に背を激しく打ち付けた零さんは、仰向けのまま、しばらく咳き込んでいた。
――何故だろう。ちっとも彼を心配する気持ちがわかない。逆に「ざまあみろ」とまではいかないけれど、「しょうがないじゃん」くらいの冷めた感情だけが胸に広がる。
(だって、それだけの事してきたもの。チカって人の話が零さんにとってどんなに辛いものでも、彼の行動が正しい理由には、やっぱりならない……)
『……だけど、自分の答えが間違っていないとも限らない』
「!」
――脳内に直接響いた言葉は誰のものなのか。男? 女? 高いか低いかすら判別出来なくて。
ぞわり、と肌が粟立つ。何……今の。
思わず結城さんを見た。それから、優海さんと双子を。みんなには聞こえなかったみたい……。
優海さんは視線が合うと、あからさまにビクついた。まるで零さんを投げ飛ばしたのは私みたいじゃないか――彼女の目は私を少し苛立たせた。
「馬鹿みたい……」
苛立つ自分もどうかしてる――呟きは溜息の代わりだった。
また軽くむせた零さんが唾を吐き袖口で口を拭うのを見ていたら、急に全てが虚しく思えて、この場にいるのも段々と嫌になってくる。
何も変わらない。何も変えられない。さっきから私達は、こうして苛立ちや怒りをぶつけ合っているだけな気がして……。
少し膨らんだ自信が、あっという間に萎んでいった。
「“自分がされて嫌な事は他の人にしない”って、子供の頃に教わりませんでした?」
「あ?」
「だから私は、ずっと教えを守ってきたつもりだけど……。今の零さんは最悪ですね。しかも、人の命が関わる話で、それとか」
零さんにこんな恨めしげに睨まれた事って今まであったかな? と頭の隅で思いながら、ひと呼吸。もし手を出されても、結城さんが止めてくれるはずだ。大丈夫。
「ちかさんは、零さんの大切な人なんでしょう? ゆっくり眠らせてあげようとは思わないんですか? 誰かの魂で生き返る事はその人が望んでるの?」
「……」
「私だったら嫌です。自分の為にしてくれたのだとしても、受け入れたくないし、納得も出来ない」
優海さんはジッと零さんを見ていた。彼女は優音君を亡くしてから、ずっとずっと苦しんできている。戻ってきて欲しいと何度も思ったはずだ。その度に、叶わない現実を受け入れてきた。
“零さんの嘘と真実”を知った今、優海さんは何を思うのだろう……。
「いいな。花音ちゃんは」
零さんは意外にも、穏やかな声で返してきた。
「あんたは世界で二番目に素直で可愛くて……。で、気の毒なくらい頭が悪くて、矛盾してる奴だよ」
「え?」
「……一番は千花だった。だから俺は、あんたを見つけた時に思ったんだ。千花にピッタリだって。しかも噂の“透明者”じゃん? 一人分で足りなかったとしても、あんたのソレがあれば……」
ふらふらと立ち上がった零さんが私を指差す。結城さんは「折りますしょうか? その指」と冷笑し私の前に立った。
「何も知らないくせに、知った風な口をきくんだ。全部悟った様な顔で、諦めるのが是だって言いやがる。優先順位は自分が一番下とか、本当はそう思ってねぇ癖によ……笑うんだよ、何でだよ。バカじゃねぇのアイツ――」
「れ、零さん」
「そんな嘘ばっか吐いて言い聞かせて、自分には何も残らない様な生き方してきたんだ。せめて死ぬ前の、あの日くらい……。――俺なら出来た。現実で無理なら『夢』の手もあったからな」
それなのに、と零さんは絞り出す。
「結城、お前が……勝手に決めて連れていったんだ!」
「……」
「どいつもこいつも千花と同じ様な事を言う。だけど、千花よりバカで不器用で、こっちがどうにかしてやらないと誰の心にも“残ろうとしない”奴は、何処にもいなかった――」
くしゃくしゃと髪をかきむしる零さんは苦しそうだった。
低く乾いた笑い声が、枯れ葉みたいに落ちていく。
誰の心にも残ろうとしない奴――その言葉が胸に突き刺さった。
「だから、選ばれた者が助けてやらねぇと。俺しか、いねぇだろ――」
「零さん……」
私は何も言えなかった。聞くことが出来なかった。
――ちかさんは、零さんの心にも残ろうとしなかったの? と。
唇を噛み、手を握り締め、質問を飲み込む。
「『私の気持ちを知ってほしかった』? ふざけんな。時間も手段もあった人間が何ほざいてんだ……」
「…………」
伏し目がちの結城さんは、胸に手をあてたまま無言で。その姿は手帳の存在を改めて確認している様に見えた。
――零さんは知らないのだと思う。
結城さんの手帳が本当はどういうものなのかを。どうして処分内容を変えたり保留してまで、特定の人間の名を残しているのかを。
いつまでもクリアにならないページの存在。自分の名が記されている可能性。
――零さんは、きっと知らない……。