『絶望と希望を天秤にかけて』2
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ナユタ君の中と真逆の、濃い白の空間を越えた。
耳の奥で葉擦れが聞こえて。誰かの笑う声と、花の香り。近付いてきたかと思ったら、瞬く間に離れていく。
一度、カフェの中庭を通ったんだ。あの結城さんの走りっぷりなら、喫茶店から中庭、そして現実の公園まで一気に駆け抜けたと言われても頷ける――。
(も、戻ってきた?)
冷たい風に顔を撫でられ、ハッと我に返った。
夜空。電灯に照らされるベンチ。人工的な静寂と違う静けさ。
季節も時間も場所もコロコロと変わる他人の記憶内を跳ね回っていたせいだろうか? まだ二回しか来た事ないネコ耳公園なのに、「やっぱりここだよね」と言いたくなる妙な懐かしさを感じる。
「お怪我はありませんか」
「はい。……って! 結城さん、顔!」
私を心配してくれた結城さんの頬には、大きな切り傷があった。鮮血が滲み傷も深そう。「あぁ。これは」だけど、結城さんは涼しい顔で答えた。
「強引に扉を繋げましたからね。貴女に反動がなくて良かった」
「でも……」
「この程度、私には関係ありませんので、お気になさらず」
そう言って結城さんは、頬の傷を指でなぞる。すると、
「き、消えた……」
跡形もなく。傷がなくなった。
「人間じゃねぇんだから当たり前だろ。クビ落とされたって死なねぇよ。ソイツ」
「それは試した事が無いので分かりませんが」
「ハッ。じゃあ試してみるか?」
「出来るものならどうぞ」
いつの間にか零さんが、私達の前に立っていた。ピリピリした二人の会話は、いつも通り。
零さんは結城さんと同じく、頬を切っていた。さっき話に出た“反動”を受けたのかもしれない。
「花音さん。セツナを頼みます」
「へ?」
「セツナです。お願いします」
いきなりのお願い、しかも間違えるなと言わんばかりに繰り返され、間抜けな声が出る私。
「あの」
「行って。――邪魔です」
結城さんは微笑みもせず、言葉で私を突き放した。その迫力に一歩後ずさる。
「ひでぇ扱いだなぁ。花音ちゃん、かわいそー」
「酷いのはお前でしょう。持っている刃物を寄越しなさい。どうやってそれを手に入れたんです?」
「え~。刃物って?」
「……零」
「ッ!」
――公園内の空気圧が変わった。上から押し潰され頭と肩が重くなり、足が止まる。
「私は今、とても気分が悪い。イカれた言動は命を縮めますよ」
「……」
結城さんの背中越しに見える零さんは、口角を上げ笑っていたけれど、内心はかなり焦って怯えているに違いない。
後ろからでも分かるのだ。結城さんの本気の怒りが――。
「花音さん。早く」
「は、はいっ!」
その三分の一くらいが「早く」に込められている様な気がして、私は急いでセツナちゃん達の姿を探した。
大きな白い獣――すぐに見つかるはずの存在。なのに、狭い公園を見渡してもどこにもいない。「消えた!? 公園を出たの?」と、もう一度、公園内をぐるっと見渡す。
――“三人”は、ベンチから少し離れた、明るさと暗闇が混じった場所に座り込んでいた。
植え込みの影と二人の黒いワンピースが重なっていたから、見逃していたのだ。セツナちゃんが子供の姿に戻っているなんて考えもしなかったし……。
「みんな……っ!」
駆け寄って、絶句。
優海さんが、ナユタ君を胸に抱いていた。彼女の声は聞こえないけれど、口の動きから「助けて!」と叫んでいると分かる。
「なんでこんな……ナユタ君!」
――グッタリとしたナユタ君の腹部は、大きく裂かれていた。
「とにかく傷を!」
手を伸ばしたところで、私はまた言葉を失う。
人間と違うナユタ君の体から流れ出ているのは、血液ではなく、黒いドロリとした液体で――。
思わず悲鳴が出てしまった。
「え、セ、セツナちゃん……これ、どうすればいいの……止血の時みたいに?」
「ナユタ、が、やられた」
「セツナちゃん? 大丈夫?」
セツナちゃんは大きく目を見開き、拳を強く握りしめ、体も声も震わせていた。
かなりショックを受けているのだろう。今はナユタ君すら見えていない様だ。
(ど、どうしよう)
『セツナを頼みます』
結城さんはそう言ったけど、現状を考えたら、ナユタ君の方が大変なのでは?
でも、彼は繰り返し“セツナ”だと、私に……。
(どうする、優先すべきは)
ナユタ君? セツナちゃん? 怪我? 指示?
……軽くパニックになりかけた私は、優海さんに縋る。
「優海さん、一体何が起きたの? 教えて!」
「……ッ!」
優海さんは首を大きく振って、涙目に。
すぐに、「分からない」「ごめんなさい」と唇が動いた。
「あ……ご、ごめん」
(違う。これじゃ、縋るっていうより、怒鳴るだ)
優海さんの表情に、自分の口調がキツくなっていた事に気が付いた。八つ当たりしている場合じゃないのに、何をやってるんだ……私。
困り、結城さんの様子をうかがう。
……結城さんは掴みかかってきた零さんにかまっている最中で、私達どころじゃなさそうだった。
(だよね。だからこそ、私にセツナちゃん達を任せたんだよね)
「花音さん、僕、大丈夫です」
「えっ?」
……と、ナユタ君が眉を顰めながら起き上がる。
「大丈夫って、でもお腹を」
「すぐ戻るから、平気です。いきなりだったから、こうなっちゃっただけで」
ちょっと膝を擦りむいた、なんて軽い感じで、ナユタ君は「いてて」とお腹を押さえる。言われてみれば、さっきより黒いドロドロしたものは無くなっているけど……。戻った? か、体の中に?
「あんなの使って出てくるとか、聞いてないですよ。だからあの人は無茶苦茶なんです」
ブツブツ言っているナユタ君の文句を聞いて、あっと思った。
結城さんも「使われた」と言っていたっけ。しかも、「しまった」とも。
そこから想像するに――。
(ええぇ……嘘でしょ)
「まさか零さん、例のハサミでナユタ君のお腹を切って出てきたの?」
「僕だって切られたら、それなりに痛いんですよ! 零さん知ってるのに!」
「そ、そうなんだ……」
つまり、ナユタ君がいまお腹に一生懸命押し込んでいるドロドロの正体は、私も歩いた闇の世界の一部――なのか。