『絶望と希望を天秤にかけて』1
結城さんの手帳には、サンプルの人間の情報が沢山書かれているそうだ。
処理が済むと、手帳からその人の情報が自動的に消える。消えては増え、消えては増え、その繰り返し。
結城さんは、一冊の手帳をずっと使い続けていた。つまり彼は、処分保留の人間を大勢抱えたりしないという事。
今は何人の名前があるんですか? と聞いてみても、当然、結城さんは教えてくれなかった。
「いつまでも消えない名前が多くて。自分の無能さが表れているようで、どうにも恥ずかしいものです」
(その内の一人は零さんなんですよね)
ニコリと微笑む結城さんに、私も同じく笑う。「消せないでいるって、別に無能な証拠ではないんじゃ?」それは言わずにおいた。絶対に否定されると分かっているから。
効率第一というくせに、それより大事にしているものがある。この人は、自分でも気付いていないのだろう。
(結城さんって、やっぱり)
――いいや。これも黙っていよう……。
なんです? と聞かれたら困るので、目線を零さんのコーヒーカップへ。さり気なく出来たかな? なんか結城さんの視線を感じるんですけど。
視線を戻すに戻せず、私はカップをジッと見る。結城さんと目が合ったら負け。二人、逆にらめっこ状態で数十秒。
そうしていたら、
『カチッ』
――と、高い音が聞こえた。カチカチ……もう一度。
空耳じゃない。
(えっ!?)
確認出来た瞬間、鳥肌が立った。その音は明らかにカップから聞こえたのだ。
結城さんが作った、時が止まり無音の場所。零さん達は、ベールの向こうで固まったままのはずなのに。
『俺の何が分かるって言うんだよ』
「っ!」
突然、脳内で低い声が響いた。それは怒気に震える、零さんの声だった。
反射的に零さんを見てしまったのは、まずかったと思う。
――目が合った。
笑顔のマネキンはピクリとも動かず、しかし、瞳だけがこちらに向いて。
「ひっ……」
「しまった、使われた! 花音さん戻りますよっ」
叫ぶ結城さんが、私の腕を掴んだ。
「へ? 使われ――」
「ッ……失礼!」
もたつく私に苛ついたんだろう、軽く舌打ちした結城さんは私を担いだ。ぐんっと目線が一気に高くなる。
「わっ、え、ちょっ」
狭い店内をほぼ駆け足で移動、高身長の結城さんの肩の上では低い天井がより近く感じて、揺れる度に頭がぶつかるんじゃないかとヒヤヒヤした。特に、入り口にある数段の階段を登る時。
米俵状態の恥ずかしさよりも、何がどうなっているのか分からない怖さの方が勝り、私は結城さんにしがみついた。
「花音さん聞かないで!」
「な、にをっ」
『クソッ、ふざけんな!』
零さんの大声がすぐそこまで追っていた。彼の言葉を聞くなと、結城さんは繰り返す。
でも、そう言われたって怒号は避けられるものじゃない。こっちは耳を塞ぐ余裕も無いのだ。
『ツムグ……てめぇ! 連れてくんじゃねぇ!』
(あっ――零さん今、結城さんの名前……)
全く無視の結城さんが扉を開けた直後、“向こう側”から光の波が押し寄せてきて、薄暗い店は床や壁を歪ませながら真白に飲み込まれていく。
零さんの姿が見えたのは、お互い体の半分が光に溶けていた時だった。
『待って……――“ちか”ッ!』
零さんが私へ手を伸ばす。
(ちか――名前? 私を誰かと間違えた?)
追いすがる様な表情。一瞬の涙目。
この彼は……“いつ”、“どこ”にいた零さんなのだろう?
疑問は全部、光に隠されてしまった――。