『罪人は誰なのか』6
「優音もこれで落ち着いたんじゃないかなぁ? そばで優海がいつも泣いてるの絶対悲しかったと思う」
「いつも泣いてたわけじゃないよ……」
「だけど優海、部屋にはどんどん小さな子用のおもちゃ増やしては泣いて、仏壇には粉ミルクやらボーロやらぬいぐるみ置いては泣いて……だったでしょ」
「…………」
お母さんが窓を開ければ、待ってましたと言わんばかりに風が滑り込んできて部屋の空気をかき混ぜる。
ラベンダーの香りはすぐに消えた。
優音君がふっと消えてしまった様な感覚。虚しさと寂しさ。
きっと私より優海さんの方が強く感じているんだろうな――。
「結城さんが言ってたの、当たってるっぽいですね」
「はぁ。ですねぇ……」
自分から言い出したくせに、結城さんは間の抜けた返事をする。名推理でも肝心の動機が説明出来なければ、ただ勘が当たった程度でしょうと言いたそうな顔だ。
「自分の子供だもん……やってあげたいって思うじゃん。絵本読んであげたいし、お絵かきしたりして――」
「だからね。それが逆に優音を悲しませるんじゃないかって、お母さん思うのよ。天国に行きたくても行けないわよ、心配で」
「…………」
(あれ……? なんだろう、この微妙な空気)
お母さんの声はあくまで優しく穏やかだ。
でもそれがかえって、相手に反論を認めさせない雰囲気を作る。
――優海さんはこの“母の優しい厳しさ”が苦手だったのを思い出した。
育児の些細な不安を払拭したくて育児書やネットで検索していると、「すぐそういうのに頼るんだから」とやんわりと遠回しに窘めてくる。何度か喧嘩の原因になっていた事、私は追体験していた――。
「この母親、彼女を心配してるのですか?」
結城さんが聞いてきた。
「そりゃあ勿論……」
「にしては高圧的ですね。……あぁ、これが俗にいう“過保護な親”?」
「えっ!? うーん……多分そんな感じの一つ……的な……?」
「曖昧ですね」
「私も分かんないんですよ。このお母さん、独特で」
「ほう……」
ちりんちりん、と二つの風鈴が鳴った。
風が強くなってきているのか、時折『チリチリチリッ』と忙しなく音が重なる。
「優音の分も頑張って生きないと。あの子が守ってくれた命よ? 優音はママの為に命をかけたの。優海に生きて欲しかったんだよ」
「……」
――胸の奥がざわざわする。内側から湧き出てくるのは、不安か、恐怖か……。
「ベビーカーがクッションになったのは偶然だったかもしれないけど、優海があの状態で助かったのは“奇跡”だって先生達言ってたじゃないの!」
「おとくんは……関係ない――」
「優音が亡くなって優海まで逝っちゃったら……。毎日怖かったお母さんの気持ち分かってくれる? 優海が目覚めた時、『ああ、優音が助けてくれた。なんて徳の高い子なんだろう』って本当に感じたんだから!」
迫力あるお母さんの声。
それは影にも現れていた。
激しく動く腕や体の影は、優海さんの影を覆う様に。見ようによっては襲っているみたいだった――。
私は、お母さんの言葉にショックを受ける。
『ベビーカーがクッションになったのは偶然だったかもしれないけど、優海があの状態で助かったのは“奇跡”だって先生達言ってたじゃないの!』
バスの下敷きになった母。来ては駄目だと叫ぶ声。細く白い手。――青い炎。
父の顔。最期の穏やかな表情。私が掴んだ魂の色。
惨事の中で一人生き延びた自分――。
フラッシュバックに目眩がした。
足元がまたひんやりとする。
深呼吸して足に力を入れないと、冷気に持っていかれそうな気がした。
(優海さんは、私と同じ経験を……)
「お母さん。おとくんは私の為に死んだんじゃないよって、私もう何回も言ってるよね?」
「優海がそう思いたい気持ちは分かる。でも生まれ持った運命ってあるんだよ」
「違うっ! やめてよっ!」
甲高い優海さんの叫び声が鼓膜を刺激する。
「お母さんがそうやって周りに言うから、だから皆が……!」
「私がやってる事が間違ってるって言いたいのっ!?」
「ちが……そんな事言いたいんじゃない……っ」
半泣きの娘と怒りをあらわにした母親の言い争いに、結城さんが溜息を吐いた。
「不毛ですね」
「……」
――風鈴の音は二人の声にかき消されて届かなくなった。
感情を抑えようとする子に対して、ヒステリックにわめく親。優海さんの記憶の中で幾度も繰り返されてきた、印象深くつらい構図だ。
優音君の写真も飾られていない仏壇と二人を見ていると、切なさでいっぱいになる。
この状態こそ優音君が悲しむのでは? と思った。
(お母さん、どうしてここまでするんだろう……)
「好美、ちょっと落ち着こう。な?」
慌てて入って来たお父さんが、興奮して呼吸を乱すお母さんの肩を叩いた。
「優海は責めてないだろ」
「私が言ってる事を全然理解してないのよ!」
「……お母さんも私の話、聞いてくれないじゃん」
「聞いてるわよ。心配してるから私だって色々言うの!」
「あぁ……二人とも今日は疲れてるんだ。少しゆっくりしてから――」
オロオロと場を繕おうとするお父さんは、数年前の印象と大分違い、ほっそりと小さく気弱な人になっていた。
二人よりも窓を気にしてる。外にこの騒ぎが漏れていないかと焦っているのだろう。本当に……別人みたいだ。
「好美。ほら、忘れないうちに薬を飲まないと。優海は着替えてご飯食べなさい。朝から食べてないだろう」
「……うん」
母を連れそそくさと部屋を出ていく父の背中を、優海さんは寂しげに見つめていた。
家全体が沈んでいる様。重く、暗い。さっきまで大人数で賑わっていたから余計にそう感じた。
「確かに、花音さんの言うとおり独特な方ですね。ご主人も手を焼いている様だ」
結城さんは肩を竦めて苦笑する。
「ちょっとパワーアップしてるかも」
私もつられて苦笑してしまった。
「彼女は他人から心配されるのが嫌なのでしょうか? まぁ、親戚といい母親といい、少々引っかかる言動もありますし……? 過敏な反応も仕方ないのかもしれませんが」
「嫌って事はないと思うんですけどね。本人が置いていかれてる感はありますよね……。優音君と最後のお別れがちゃんと出来ていないって気持ちの整理つかないだろうし、かなり辛いんじゃないかな。それなのに周りからああやって言われたら……」
ラベンダーの香りが再び部屋を包む。
控えめな鈴の音は長く伸び、聞いているとネコ耳公園で歌っていた優海さんの声と重なった。
本当の私達がいる世界では、もうその綺麗なソプラノは聞けない。
だけど、目の前で手を合わせている優海さんは、これから大勢の前で高らかに歌っていく。
とても不思議で複雑な気分――。