『どうして』21
中庭は、本当にここは病院内なのかと驚くほど広く、のんびりとした場所だった。点滴スタンドを押している患者や白衣の職員が歩いていなければ、家の近所の公園と大差ない。
「外……久しぶりだ……」
「今日は風がないから暖かいね」
優海と武田はベンチに座り、リハビリ中の患者やベンチで談笑する人らをしばらく眺めた。
パジャマ姿の子供とその子を追いかける看護師。無邪気な笑い声に優海は目を閉じる。
「ねぇ、武田さん」
「うん?」
「……なんで誰も私の事……怒らないんだろう……」
優海の呟きに武田は小さく微笑んだ。
「責める理由が無いからよ」
「あるよ……」
「無いわ。責められて罰せられる人間は、脇見運転してた加害者だけ。谷口さんは何も悪くない」
「……」
(でも……)
膝の上で拳を握りしめる優海に、武田は穏やかな声で言った。
「私じゃ説得力ないだろうけど……。頑張って乗り越えるのは、まだ先でも良いんじゃないかな……」
「え?」
「無理してる」
手に手が重なる。強張る優海の手を包む、少し低い武田の体温。
それで気付いた。彼女は気まぐれでここに誘ったのではなく、何か言いたい事を伝えるために自分を連れて来たのだと。
それに……話がしたいだけじゃないのかもしれない。
「辛い時は辛い、悲しい時は悲しいって言っていいんだよ。気持ちは吐き出さないと。自分が溺れちゃう」
「……」
「私、全部聞くからさ。でも聞くだけね。それしか出来ないの。いやぁ……情けない……臨床心理士の勉強しとけばよかったなぁ……」
苦笑する武田に優海は笑う。
――笑おうとした。
でも……笑えなかった。
「なんであの日に違う公園に行こうと思ったんだろう……。レターセット、一人で買いに行ってたら……。家出る時間もう少し遅かったら……」
あそこで立ち止まらなければ
近道しようと思わなければ
あの日、雨が降っていたら――
ずっと考えている。
終わってしまった、今更どうにも出来ない事を延々と。
誰も優海に「なぜあの日に」と言わなかった。みんな分かっているからだ。優海と優音を襲った事故は予測不可能なもので、二人に起きた不幸が“運命”ならば、それはもう仕方がないと言う事を。
もちろん、優海も分かっている。だけど受け入れるには残酷過ぎて、気持ちが追いつかない。
怪我の痛みは軽減していくのに、心の痛みは増す一方だ。
いっそ周りから非難された方が楽なのかもしれない……と思った。
クラスから見捨てられた時や友成の両親に罵倒された時みたいに。
お前なんか……と否定されたら、今までの様に自分を殺してしまえばいい。繰り返せばきっと、本当に自分が消える日が来る。そんな風に考えた。
けれども、優海を否定する人間はいなかった。「いてくれて良かった」と微笑む人ばかり。
――消える日が遠のいていく。
優海は消えずに、今も生きている。
「おとくんは……いなくなっちゃった……。私のせいだ。私が……ちゃんとしてれば……」
「それは違うよ。絶対違う!」
「どこに行っちゃったの? 私まだ、おとくんに会ってないよ。抱っこしたい……冷たくっても、目を開けてくれなくてもいい。抱っこしたい!
産まれた時に一番最初に抱っこしたのは私だよ? だから一番最後に抱っこしてあげるのも私じゃなきゃ駄目だったのに……! 私は……おとくんのお母さんなのに……!」
震える優海の言葉に武田は絶句した。
昏睡状態の優海がいつ目を覚ますか分からないと知った両親は、「安置所の冷たい引き出しの中に優音を一人でいさせられない」とすぐに葬儀などを進めてしまった。
――だから、優海が目覚めた時には全て終わっていて。
泣きながら「可哀想だったけどそうするしかなかった」と親に言われたら、優海は受け入れるしかなく。
後悔と、自責の念と、行き場の無い怒りは、一体どうすればいいのだろう。
泣きそうになるのをグッと堪えた。
「叔母さんに、神様は乗り越えられる試練しか与えないんだよって言われたの。乗り越えられる人を選ぶのよって。武田さん、どう思う?」
「え……」
「なにそれ。意味分かんないよ。なんで乗り越えられるとか分かるの……神様だから?」
奪われ続ける試練を耐え得られるものは、果たして何なのだろう。
楽しかった日々や大好きな人、愛しい我が子よりも……素晴らしいものなのか?
「……神様に……なにが分かるっていうのよ……」
武田は黙っていた。でも優海はそれで良かった。彼女は最初に「聞くだけね」と言っていたし。
きっと、今の優海には、どんな言葉も陳腐でくだらない同情の欠片にしかならないと知っているのだ。やはり彼女は他の人達と少し違う。
「私じゃなくたっていいじゃん……。他に人間いっぱいいるでしょ……」
中庭でのんびり過ごしている人、外来の患者、お見舞いに来る人達。この大学病院内だけでも相当な人数だ。
学校、駅、公園、ショッピングモール――どこにだって人間は沢山いる。
(それなのに……)
――神様は平等じゃない。
溜まっていた不満が体から滲み出てくるのを感じた。
指の隙間から流れ落ちていく砂の様に、守りたいものが消えていく。ささやかな願いすら聞いてもらえないなんて。
聞き分けの良い子が“本当の良い子”だと誰が決めた?
我慢強い子が“芯の強い子”だとは限らない。
もう……耐えられない気がしてきた……。
「どうして……」
どうして?
「どうして私なんだろう……」
(私じゃなきゃいけない理由があるなら、教えてよ)
「なんで、私ばっかりこんな……っ! どうしてっ!」
――親やみんなの前で言えなかったこと。
(誰か、ひとつくらい代わってくれたっていいじゃん……! でも無理でしょ? 出来ないでしょ? だったら……)
「頑張ろうね、とか……そんな簡単に……!」
涙が堰を切ったように流れ出す。
ずっとずっとためていた涙は、そう簡単には止められなかった。
「かんたんに……いわな……いでよぉ……」
しゃくりあげる優海の背中を優しくさする武田は「そうだね。……そうだよね」と呟く。
彼女の声も、震えていた。
中庭の大きな木が風に揺れる。泣き声を隠してくれる葉ずれの音。
武田は、だから中庭に優海を連れて来たのだ。優海が泣かない――泣けずにいるのを憂いて。
ここならばさほど目立たないはず。ベンチや木陰で泣いている者が時々居るのを、武田は知っていた。
――感情的に泣く。本来それはとても大事で、必要なものだ。
子供大人、性別は関係ない。泣く事で人は心の安定を得る。
だが優海はどうだろうか……。
もしかしたら武田は、優海がこの先声を押し殺し泣く事しか……いや、泣く事すら出来なくなるのでは……と、心配したのかもしれない――。
優海が落ち着いた頃、彼女は優しい声で言った。
「谷口さん。退院して落ち着いたら、二人でお茶しに行かない? 私、谷口さんとお友達になりたいんだ。患者と看護師で終わっちゃうんじゃなくてさ」
「…………うん」
こくんと頷いた優海に、武田が微笑んだ――。