『嫌なら抵抗を』1
残暑がいつまでも居座り、今年は秋が来ないのでは? と考える夜。時刻は午後九時少し前。
お風呂から上がり、窓から入ってくる生ぬるい風を感じながら、ミネラルウォーターを飲んでいる時だった。
全く予期せぬタイミングで玄関のチャイムが鳴り響き、私は思わずペットボトルを放り出しそうになる。
当然……時間指定した宅配も無いし、友達が遊びに来る予定も無い。そもそも、そんなのあったら、のんびりお風呂になんか入っていない。
空耳? と首を傾げながら、ドアを開けた。隣のおばさんかな――と、何も考えずに。
「はぁい……」
「夜分遅くに、申し訳ございません」
「っ!?」
いきなり深々とお辞儀をする目の前の人物に、体が硬直した。
礼儀が良過ぎ。雰囲気があり過ぎ。――語彙力はどこかへ飛んでいった。
このマンション、オートロック以外の他に何があった?
コンシェルジュがいる高級マンションなんて聞いてないけど……。
(誰っ?)
疑問符だらけの私に深々と頭を下げていた人物は、ゆっくりと体を戻す。
ふわっと甘い香りが玄関に舞った。
「私、本日隣に越してきました、結城と申します」
「……は、はあ……」
「どうぞ宜しくお願い致します。それからコチラ、ご挨拶代わりに」
そう言って差し出されたのは、美味しいと噂には聞いてるけど自分では買えないだろ、という某高級菓子店の箱。
私は、箱と贈り主の顔を交互に見ながら、おずおずと手を出した。
(隣人……隣人!?)
長身にピシッと決まったスーツ姿、さらさらの黒髪に少し茶色がかった瞳、端整な顔。
次元が違い過ぎる……どこのスターですか、貴方。こんな家賃そこそこのマンションに住む様な庶民には到底見えませんけど。
「こ、こちらこそ……宜しくお願いします。私も長く住んでるとはいえ、このマンションの事はあまり詳しくないんですけど……」
動揺しつつ、とりあえず隣人として愛想よい所を見せる。笑顔で箱を受け取った。
相手はともかく、これはラッキー……? 明日は親友呼んで、このお菓子でお茶か……?
「では、私はこれで……。ああ、それから」
長身が近づく。
手首をやんわりと捕まれて、彼の綺麗な顔が私の顔に近づいた。
「……っ!?」
「余計なお世話かもしれませんが……入浴後はもう少し露出を控えた方がよろしいかと。それに、女性の一人暮らしならば、夜は安易にドアを開けないのが身の為ですよ?」
耳元に低い声。
吐息が頬に触れ、まるで恋人にするように色っぽい仕草で、彼の長い指が唇をゆっくりなぞっていく……。
私は、突然の事態に金縛りにあったみたいに動けなくなった。
「いつ誰が来て、貴女の事を攫って行くかわかりませんからね。例えば、私……とか?」
潜められた声が有り得ない位の艶を見せ、背中が思わずゾクッと震えてしまう。
声にならない声。あまりにも顔と顔が近いので、視線もどうしたらいいのかわからない。
迂闊に動けば、彼の唇が私に触れるだろう。
「あ……あ、の……?」
「……お休みなさい。戸締まり忘れないで下さいね」
クスリと笑うと、彼はスッと体を離す。そして、意味深な微笑みを残しながらドアの向こうに消えた。
私はというと、扉が閉まる音と同時に玄関にへたり込んで……。
しばらくそのまま動けなくなった。
な、ななな何っ!? 今の出来事は。
夢?
もしくは、ドッキリ?
隠しカメラでもあったりして……。
私は、そろーりとドアを開けて、廊下を確認する。
もし本当にドッキリで、隠しカメラがあったら……ドアの隙間からキョロキョロと周りを見る、間抜けな私が映ってるはず。
でもまあ、とりあえず見た限りでは隠しカメラは無いようだ。
さっきのお隣りさんも部屋に戻っていたから、廊下はシンと静まり返っていた。
ドアを閉めて。――そうだ、鍵も忘れずに……。
美形紳士の微笑みを思い出す。
いやいやいや! 別に、あの人に言われたからじゃないし!
普通に戸締まりだし!
と、ひとりで意味不明な言い訳をする。誰に対しての言い訳なんだか……。馬鹿か、私は……
溜息が出た。
確かに顔は良いし、口調も何もかも紳士な振る舞いだった、お隣りさん。
だけど、最後のアレは……どうなんだ。
顔近すぎでしょ、初対面なのに。大体、物事には順序というものが――
「ていうか、この言い方じゃ“慣れたらOK”みたいじゃんか」
違う! 無いから普通!
ただの隣人であの至近距離は。
ぶんぶんと頭を振って、頭にはびこるおかしな思考を退ける。飲みかけのミネラルウォーターを一気に飲み干した。
「冷静になれ、私……!」
気分を変える為に、いただいたお菓子の包装を開いてみる。
そうだ。さっきのお菓子への高揚感を思い出せば、イケメンに迫られた(?)動揺くらいどっかに行くさ。
いかにも上品そうなクッキーの詰め合わせが現れ、私は「おぉ~」と呟いた。
昔、お祖母ちゃん家で食べた、丸い缶に入ったクッキーのそれとは大違いだ。
……当たり前か。
スーパーの特売品と比べられたら、高級老舗が泣く。
つまみ食いしたクッキーは、めちゃくちゃ美味しかった。
多分、この先リピートする事はないであろう、バターの風味濃い小さな塊を咀嚼しながら、私はお隣りのユウキさんを思う。
引っ越しの挨拶にこんな高級品を持ってくるなんて、余程の見栄っ張りかセレブかどっちかだ。
まあ考えれば、あの人から厭味な雰囲気は感じなかった訳だし、あれだけの物腰柔らかさを身につけるのは見栄位でどうにかなるもんじゃない。
彼は、見栄っ張りな似非紳士なんかじゃなく、本物なんだろう。
……本物紳士がセクハラを働くかは別として。
「しっかし、お金持ちが何でこんな平凡マンションなんかに引っ越してくるかなぁ……」
不思議だ。うん、謎だ。
クッキーを食べながら色々彼の事を考える私は、この時すでに相手の思惑とペースに巻き込まれてた。
とは言え、そんな事勿論知る由もなく……。
呑気に「今度お礼言わなきゃなー」とか言いながら、3個目の甘いクッキーを口に入れていた……。
平凡な日常は、突然変化して非日常に。
こうして、謎の隣人結城さんと私の、奇妙かつ罠的(?)近所付き合いライフが始まったのである――。