◆◇◆洞窟の男、ユーラシウス◆◇◆
***ユーラシウスの隠れ家***
暗い洞窟の奥に、小さな焚火の炎が揺れている。
焚火から離れた岩の上に干し草が盛られている以外何もないが、そこには確かに何者か住んでいる。
静まり返った薄暗い空間に、焚火の中で燃える木々の音。
不意に洞窟の外からパチンと枯れ枝の折れる音が聞こえた。
何者かが足で踏んだのだろう。
干し草がカサっと音を立てて揺れる。
炎に照らされた洞窟の壁面に、ゆっくりと起き上がる男の影が映し出された。
特に枯れ枝が折れる音に驚くでもなく、身を起こす男の姿が小さな炎に移し出せれる。
髪の毛も髭もボサボサに延びている、まるで原始人か老人のような影。
立ち上がった、男の影が壁面に映し出され、次第に大きくなる。
裸足の足が焚火の傍で止まり、しわだらけの骨ばった指が何本かの細い枝を掴み小さくなった炎にくべた。
火はたちまち大きくなり、にわかに洞窟の中も明るさを増し、その男の姿を鮮明に照らす。
足と腰に獣の皮を撒いただけの粗末な衣服を纏い、見事に割れた腹筋と逞しい腕、盛り上がった三角巾と太い首。
その立派な体の上には、老人のような白く脱色した髭があり、小じわ混じりの堀の深い顔には髭と同じように白髪交じりのボサボサに伸ばされた髪の毛があった。
鼻は鷲のような鉤鼻で、目はしわの影響で細く開いているが、隆々と逞しい体と比べると明らかに生気がない。
若者とも老人とも言い難い容姿。
男は、まるで起き掛けに新聞でも取りに行くように、ゆっくりと洞窟の外へ向けて歩く。
洞窟の出入口にはドアかカーテンのつもりなのだろうか、乱雑に編まれた葦の束が掛けられていて、それを開けた途端まばゆい光が差し込み、景色がホワイトアウトした。
山々が連なる緑豊かな森。
勢いよく流れ落ちる滝。
滝壺からゆっくりと流れる川には、鱒が優雅に泳ぐ。
小鳥たちの群れが羽を休めるように、洞窟の傍にある木々に止まり、出て来た男に話し掛けるように囀る。
男が腰を降ろし、一枚の木の板を拾い上げた。
それを見つめる男の細くしゃがれた目が、見開かれ空を仰ぐ。
手に持った木の板には“男が一人、高原を越えた”と書かれてあった。
***アーリアの小屋***
「もう一人の人間は?」
薪を切りながら僕は聞いた。
「もう一人の人間も男よ。ほら、前に話した結界の森を測量した人間」
「その男も卑怯な手を使って、嵐の高原を越えたの?」
アーリアが助けてくれなければ僕は嵐の高原で死んでいたし、ミカールのような卑劣な方法を取る以外、あの場所を人間が越えるのは無理だと思った。
しかし教えてもらった答えを聞いて、僕は自分の浅はかさを思い知る。
男の名はユーラシウス。
彼は一度で高原を越えた訳ではなかった。
最初に嵐と遭遇した時に、彼は直ぐに森に引き返したのだ。
何故、周囲が見えなくなるほどの凄まじいあの嵐の中で、彼が引き返すことが出来たのかは訳があった。
そもそも彼は、それ以前に森の測量をしていた。
測量に必要な道具はコンパス。
しかし、この世界……いや、少なくともあの森の何処にもコンパスを売っている店はないし、ここへ転生して来た時点で服以外の何物も持ち込めないのは僕自身の体験からよく分かる。
だって、普通ならポケットの中に携帯とか家の鍵とか持っているものだけど、それが一つもなかったから。
では、彼はどうやって磁石を手に入れることが出来たのだろう?
答えは簡単。
それは天然磁石を見つけたから。
天然磁石は普通にあるものではない。
見つけるには幾つかの偶然が必要だ。
原材料は磁鉄鉱と呼ばれる物質。
聞きなれない言葉だけれど、磁鉄鉱そのものは実はそう珍しいものではない。
しかし磁鉄鉱イコール天然磁石ではなくて、単に磁気を帯びやすい鉄鉱石と言うだけ。
磁鉄鉱が磁石に変わるには、色々な条件があるけれど、最も分かりやすいのが雷。
雷は、ほんの一瞬に莫大な電流が流れるため、その時に強い磁場が生じる。
だから雷が落ちた場所に磁鉄鉱があれば、それは天然磁石に変わっている可能性が高い。
おそらくユーラシウスは偶然か、それなりの知識を持っていたのかは定かではないけれど、そうして天然磁石を手に入れたのだろう。
磁石さえあれば、嵐の中でも、正確に元の場所へ引き返すことは出来る。
アーリアの話ではユーラシウスはそうやって何度も何度も装備を変え挑戦し続けて、見事に自力であの嵐の高原を越えることが出来たのだと言う。
嵐の高原を越えてきたユーラシウスは、そこに人間が居たことに驚いた。
とにかく理由はどうあれ、ユーラシウスは喜んだ。
そして嘆いた。
喜んだのは言うまでもなく、そこに同族の人間たちが居て、何年か振りに話をすることが出来たから。
嘆いたのは、彼等が家も文明も持たず、絶えず動物たちに怯えていたから。
ユーラシウスは直ぐに尖ったサヌカイトで斧をつくり、コツコツと木を伐り粗末ながら外敵から身を守るための家の建築に取り掛かった。
家を造りながら、火の起こし方を教え、綿花を紡ぎ服の作り方も教えた。
粗末な家や衣服が出来上がると、ユーラシウスは次に土や石を使って炉を造った。
最初は粘土質の土を焼いて土器や炭を造り、それが上手くいくと、もっと温度を上げる工夫をして砂鉄を溶かし幾つかの簡単な鉄製品を作った。
ケイシャと言われる透明な砂を溶かしてガラスも作った。
こうして、人々が服を着て家に住むようになると、文字や生きて行くために必要な雑学も教えた。
けれども、ひとつだけ教えなかったことがある。
それは狩りの仕方。
最初、同じ人間が居たことに喜んでいたユーラシウスは、しばらくして彼らが本当の人間ではない事に気が付く。
彼らが、嵐の高原に掛けられた魔法によって人間の姿に変えられた動物だったことを。
元の姿が牛であったり馬であったり狼や山猫だった彼らに狩りを教えてしまったら、同族を狩ってしまうことになる。
馬が馬を殺し、牛が牛を殺す。
それは人間だけが行う、愚かな行為。
もしも魔法が溶けたとき、そんなことをしていた自分に気が付いたとき、彼等は平気で生きていられるだろうか?
仲間を殺して、それを栄養にして生きていたこと。
特に草食動物が肉食動物を食べていたことは、最悪この世界の食物連鎖の仕組みを壊しかねない。
体の大きな牛が群れで狼を襲う。
そうして肉食動物を絶滅させてしまい、束の間の楽園生活の後に訪れるのは、草食動物による森林破壊。
それを意味するものは絶滅でしかない。
自然界に住む全ての生き物のなかに頂点に君臨するものなど必要ない。
かつての人間がそうだったように、頂点に君臨する者は必ずそのバランスを破壊してしまう。
だからユーラシウスは質素で地道ながら、自分の食料を自分で栽培する農耕を彼らに教えた。




