6―希望の光
それが恋だと気づいたのは、いつだったろうか。
少年には、本当はもうわかっていた。
ただ現実を見たくなくて、逃げているだけなのだということも。
悪魔に屈したのではなく、己の弱さに屈しているだけなのだということも。
あの女性の言う通りなのだろう。
彼らは悪魔などではない。誤った認識を植え付けられ、それに疑問も持たずに、愚かなままの自分から目を逸らしてきた。
その報いだろうか。使い捨ての駒として幸せに死ねるように洗脳されてきたのに、真実を暴かれてしまった。
自分がいかに何も無い、虚しい存在なのか、思い知ってしまった。きっと、誇りなんて二度と持てない。
だからいっそ堕落して諦め切ってしまおうと、考えることをやめてしまった。
自分の弱さを知ってしまえば、逃げることに恥すらない。
言われたことだけをする生活を始めた。反抗などしない。しても何の意味もない。
何も考えずに従うことは、とても楽で安らげた。
価値の無い自分には指標が無い。だから与えられなければ何もできない。
以前だって、自覚がなかっただけで、きっとずっとそうだったのだ。
相変わらず口は利かなかった。
言葉が意思を伝えるためにあるなら、彼にはもう意思など無い。
もし不用意に言葉を発して、今以上の何かを求められても、煩わしいだけなのだ。
このままでよかった。
乳飲み子のように、生かされるだけの存在でありたかった。
けれど。たった一つだけ、彼の心を揺さぶるものがある。
それは深く青い瞳。
全てがどうでもよかったのに、その瞳から涙が零れ落ちた時だけは、どうしようもなく胸が痛んだ。
綺麗な目をしていると、言ってくれた。
傍にいろと、言ってくれた。
その女性は、優しく温かく、柔らかく心地よかった。
全てを委ねて縋ればいいのだと思っていた。
しかしそれは、どうやら間違っていたようだ。
どうしようもなく傷ついた目をして、彼女は泣いていた。
どうすればいいかわからなかった。何を求められているのかわからなかった。
空っぽな自分には、差し出せるものがない。
そうして彼女のことばかりを想ううち、嫌でも気づいてしまった。これは恋なのだと。
そうとわかれば、単純な話だった。
初めから、彼は彼女に恋をしていたのだ。
海岸で彼女の腕に抱えられて、その麗しいかんばせに目を奪われた時から。
だから、その感情を否定するために、刃など向けたのだ。そうでなければ、咄嗟にあんなにも彼女の存在を否定することなどなかった。
そう――悪魔である彼女に心を奪われている、などと慌てる必要はなかったのだ。
有り体に言って一目惚れだったわけである。
愚かなことだ。一目で何がわかるというのか。その美貌に、一瞬で魅了されたというだけではないか。
そう、彼は彼女のことを何も知らない。
魔族の女王と名乗ったことと、その名と、そして彼の命の恩人であるということくらいしか。
気づいたところで、叶う想いだとも思っていない。
相手は魔族で、女王で、この上なく美しい。
凡庸で、何一つ持たないただの人間である彼に、届くはずなどないと、そう思っていた。
ただ、一日でも長く、彼女に忘れられずにいたかった。
傍に置いてほしかった。
時々でも会いに来てほしかった。
それだけで、よかった。
それだけ、とは言っても、それだけのことが如何に高望みか。
女王である彼女、何でもない自分。魔法の力を持つ彼女、何の特別も持たない自分。美しい彼女、地味なだけの自分。
そうして考えれば考えるほど、気に掛けてほしいだなんて、どれだけ身の程を弁えない願いなのかと思う。
今のところは、居場所のない彼を憐れに思って、気に掛けてくれている。
けれどそんなこと、いつまでも続くはずがないとは、彼もどこかで思っていた。
それでも会いたいと願ってしまう。
知りたいと願ってしまう。
それが恋だという、証のように。
トントンッ――。
ある午後。突然のノックの音で思考が中断された。
あの女性はいちいちノックなどせず、突然現れる。ならば世話係だろうか。
「入りますよ」
入ってきたのは、淡い金髪に赤い瞳をした、理知的な美男子だった。
女王の従者と名乗った彼は、歩くだけで完璧な紳士のような身のこなしをしている。
「この国にいるなら、この国の言葉を覚えなさい」
そう言って、男は分厚い辞書を差し出した。
それを受け取りながら、少年は胸にチクリと醜い痛みを感じた。
あの女性の傍に、いつもこんな美しい男がいるのか。
そしてこの男は、あの女性同様、少年の国の言語を話す教養もある。
少年は、外国語なんてひとつも話せない。
何の価値も無い自分。それは、この白い部屋にこびりついた泥の様なものに思えた。
「いつまでも沈黙を通すのは無礼です。仮にあなたが、陛下を命の恩人とは思っていなかったとしても、それ以前に紛れもなく一国の君主であるということをお忘れなく」
この男の言う通りだ。
何も考えたくなくて、何の責任も取りたくなくて、中身の無い自分を晒すのが怖くて、そんなことのために黙っているのは、失礼なことだ。
本当はわかっていた。わかっていても、堕落しきった今の生活から、どうやって抜け出せばいいかわからなかった。
「そんなに甘えたままでいては、生きていても死んでいても同じですよ。せっかく救われた命、もっと大切になさい」
お見通しとばかりに、赤い瞳に睨まれる。
「正直、馬の骨より迷惑な穀潰しの人間を拾ってきて、喜んでお世話してやっている陛下にも、そろそろ目を覚まして頂きたいところですがね」
この男はきっと、あの女性に意見できる、良い臣下なのだ。言いなりになることしかできない少年とは、大違いなのだろう。
そう感じ取って、少年は余計に劣等感に塗れていく。
「いい加減、全てに興味が無いようなその目はおやめなさい。わたくしがあなたを、完璧な紳士に育て上げて差し上げます」
はっとした。
完璧な紳士に、なれるのだろうか。こんな自分でも?
理知的な赤い瞳を、思わず見上げた。
「おや。少しは表情が動きましたね。なりたいですか、完璧な紳士に?」
こくり、と頷いていた。
ここに来て初めて、返事らしい返事をしたことになる。
「ようやくきちんと反応を返しましたね。そんなに、自分に付加価値が欲しいですか?それとも、陛下に気に入られたいのですか?」
付加価値。そうかもしれない。
気に入られたい。きっとそうなのだ。
全てを見通されている。けれどきっと、何もないより良い。
だからもう一度、頷いた。
「よろしい。自分を認められるのは美徳です」
理知的な切れ長の目が、すっと微笑んだ。
「知識と教養を持ち、完璧な所作を身に着けたところで、それは外側に纏ういわば鎧のようなものと心得なさい。あなたの中身はあなた自身で育んでいくしかありません。わたくしは、そのためにまず、あなたにどこに出ても恥ずかしくない鎧を、与えて差し上げましょう」
それは、雲間に差す光のように、少年に希望を与えた。
空っぽだった中身を、鎧も無いまま曝け出せるほど、少年は強くない。
鎧があれば、何か変われるかもしれない。
「心して付いてくるように。まずは言語です。言葉ができなければ話になりません。そして、歴史に物理学に魔法学、剣に乗馬に船の舵取り、礼儀作法にダンスに紅茶の淹れ方に至るまで、他にも学んで頂くことは兎に角たくさんあります」
こくこくと、頷いた。
「猛烈に勉強なさい。一週間後にはわたくしとの会話もこの国の言葉に切り替えますからね。その頃になってもあなたがわたくしの言葉を理解しないようなら、鞭打ちですよ」
こくこくと、また頷く。
「この国の言語――精霊言語は、精霊の用いた由緒ある言語。それを人間のあなたに与えるのですから、光栄に思いなさい。さあ、言語はしゃべらなければ短期習得は不可能です。とりあえず、その口を開いて何か言ってみなさい」
少年は、決意を固めて口を開いた。
「はい、先生」
先生、と呼ぶことが正しいかはよくわからない。
しかし、教えを乞うにあたって、相手のことを呼ぶに相応しい呼称は、先生しか知らなかった。
赤い瞳が驚いている。しばし沈黙が流れた。
「よろしくお願いします」
少年が再度、言葉を発した。
「しゃべれるなら、陛下に対してもそうなさい。わたくしの教育は厳しいですよ。覚悟するように」
それだけ言うと、淡い金髪を後ろ姿に揺らして、男は部屋を出ていった。
少年は、ほんの少し意思の戻った瞳で、手の中の分厚い辞書を見た。
見慣れない文字が並んでいる。
一週間、という言葉を思い出し、鞭打たれる未来を覚悟した。