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4―恋の自覚

恋をしていたのだ、と、はっきり気づいたのは。

彼女の場合、取り返しのつかないほどに絶望的な状況に陥った後だった。


エルフリーデ・ジルヴィア・アルテンブルクは、恋を知らぬ生娘のまま成熟した大人の女になっていた。

絶世の美女と褒めそやされ、辣腕の女王と畏れられ、あらゆる称賛をほしいままにした彼女だが、異性を愛したことは無かったのである。


美を体現したような彼女に、これまで縁談の類が途絶えた試しはない。

婿になることまでは望まずとも、言い寄る男はいくらでもいた。にも拘らず、彼女は誰も選ぼうとしなかった。

だからこそ彼女の従者も、「女王は人間の少年にご執心」などという噂を、初めは鼻で笑い飛ばすだけだったのだ。それがどうやら、笑い事ではなかったようである。


海岸で少年を拾ってきて以来、寝ても覚めても脳裏を離れない焦げ茶色の瞳のことを、エルフリーデは想う。

あの時、魔族の自分に怖じることなくまっすぐに向けられる意思の強い目に、胸の奥に眠っていた何かを射抜かれるような感覚があった。


あんな目を向けられたのは初めてだ。

あの目をもっと見たい、ずっと見ていたい。

たまらなく惹きつけられる。

四六時中、その願望が彼女につき纏った。


その状態にあって自分の恋心をなかなか自覚しなかったのだから、鈍感としか言いようがないのであるが。

兎にも角にも、その焦げ茶色の瞳が今、彼女が恋焦がれた光を失っていることが問題なのである。


彼はあれから、死んだような目をしている。

相変わらず言葉を発しない。いつもぼんやりとしている。

地味ながら整った顔立ちから意思の色が消えて、まるで人形のようだ。


完全に彼女のせいだった。

彼の信じていた誇りを否定したからだ。

彼女にはそれがわかっていた。

けれど、好きな人にどう接していいかなどということは、彼女にはさっぱりわからなかった。


生きて欲しいと願った。

だから、誤った誇りのために死なないように、自分自身を誇れるように、そう伝えたかった。

けれどそれは、上手く伝わらなかったのだ。

こんな抜け殻のような彼を望んだわけではなかった。

なのに、彼はただそこにいて、死なないだけになってしまった。


彼は抵抗しなくなった。全てを諦めたように受け入れる。

言われるままに水を飲み、食事を摂る。

その目はあまりに虚ろで、もうあの光を宿して彼女に刃を向けるようなことも無いのである。


体力が戻ったと見るや豪勢な食事を与えてみたり、上質な衣服を贈って着飾ってやったりと、彼女はまるで見当違いなことばかりをしていた。

しかしそんなことは、当然ながら何の意味も為さない。


エルフリーデは、臣下たちに苦言を呈されながらも、彼を手放そうとはしなかった。

「女王は人間の少年にご執心」、というかつての噂が現実味を帯びてしまうことになっても、構う余裕などなかった。

それどころか、実際それは事実なのだからと開き直りさえした。


本当は、もう体力が回復している彼をあの病室に置いていることにも、必要な手続きも取らず国内に身柄を留めていることにも、大義名分は失われつつあった。

苦しい言い訳と自覚しながらも、「傍に置くと約束した」と、約束と呼べようもない言葉を投げかけたことを理由に、口も利かず意思も示さない彼を、保護という名目の元に自分の庇護下に置き続けているのである。



そんな状態が、一週間も続いた頃。



「おいで」


その日の執務を終えたエルフリーデは、少年に与えてある病室を訪ねていた。

宵闇に覆われた部屋で明かりも点けず、何をするでもなく、そこにいるだけの少年に声をかけて、優しく抱き寄せる。

素直に身を預けた彼が、心地よさそうにとろりと瞼を閉じる。


「何故だ」


責めるような色を含んだエルフリーデの声が、静かな部屋に凛と響く。


「何故、抵抗しない。何故、振り払わない」


非難するように覗き込むと、ゆるりと開いた瞼の奥から、焦げ茶色の瞳が虚ろに覗いた。


「ほら、私を殺さないのか」


おもむろに、彼の手に自分の腰にあった短剣を握らせてみる。

しかし、エルフリーデが手を離そうとすれば、彼はその柄を握ろうともしない。


堪らなく、泣きたくなった。

こんなことは、エルフリーデには初めてだった。

縋るように少年の瞳を見つめる。

しかしそこに光は宿っていない。


パンッ――と。

いきなり、エルフリーデは少年の頬を張った。

乾いた音が響き、程よく日に焼けた少年の頬が赤く腫れる。


「私を睨め!あの憎しみに満ちた瞳で思い切り!」


それでも、彼の表情は虚ろなまま変わらなかった。

理不尽なことをしているという自覚はあったが、彼女はとめどなく込み上げてくる激情を持て余して、どうしていいかわからなかった。


少年の赤く腫れた頬が痛ましくて、エルフリーデは涙を流した。

そうして腫れた頬に手を添えて、青白い光ですぐに治してやった。


「すまない…」


初めて、焦げ茶色の瞳が少し揺れた。

彼女はその奥に、あの意思の強かった彼の面影を見た気がした。

自分の傷には関心もないくせに、傷つけた相手の血を見て痛そうに顔を歪める、あの頃の彼の面影を。


名前を知っていたなら、今ここでその名を呼んでいただろう。

しかし、彼は彼女に名乗らないままだった。


呼びたい。呼べない。


エルフリーデは、彼について何も知らない。

どのように生まれ育ったかも。

どんな暮らしをしていたかも。

誰といて、何をしていたかも。

好きなものは何か、望むものは何か、そんな全てを何一つ。


それで何故、恋などするのだろうか。

この感情は何なのか。

愚かすぎて気がおかしくなりそうだった。


やり場のない激情が彼女を狂わせていく。

全てを壊してしまいたくなるくらい、自分にも、思うままにならない現状にも苛立った。


気づけば、エルフリーデは少年を寝台に押し倒して、覆いかぶさっていた。


「抵抗しろ、でないと」


自ら選んでやった上質の衣服を、少しずつ剥ぎ取っていく。


「ほら、抵抗しろ。誇りはないのか」


シャツのボタンをひとつひとつ外して開き、月明かりに鍛えられた少年の体躯を晒していく。


「こんなことをされて、恥ずかしくないのか。拒め、でないとどうなるか」


ベルトに手をかけて、するりと引き抜く。


「聞こえないのか」


焦げ茶色の瞳はとろりと心地よさそうに、全てを委ねようとしている。無性に腹が立って、頭に血が昇った。

エルフリーデは、また頬を張ってやろうと、手を振り上げた。


「抵抗しろと言ったのに!こんなことをされてもまだ、無関心に従うのか!それでも生きていると言えるのか!」


しかしその手は、そのまま下ろされた。


見下ろす少年から向けられる虚ろな瞳の、なんと浅ましい色をしていることか。

この目は知っている。

権力に恭順することで、富と安寧とを享受しようとする、怠惰で図々しい連中と同じ目だ。

贄の羊でさえも、こんなものよりはもっと純朴な目をしている。


苛立ちと軽蔑がせりあがってくる。

こんな男に夢など見させる恋などというものの下らなさに、吐き気を催しそうだ。


そして、彼女自身は今、どんな目をしているだろうか。

少なくとも先程まではきっと――。


忌まわしい記憶の中の、おぞましい男の顔が浮かぶ。

ただ思い通りに蹂躙しようと力を振るうだけの、弑逆的なあの目。

あの目と同じ目を、自分はしてはいなかっただろうか。


ぞっとした。恐怖と嫌悪が駆け抜け、彼女は身体を硬直させる。


組み敷かれたままの少年は、ただ虚ろに見上げている。

先程と同じ目の色をしたままで。


恋、とは。それは恋だったのだろうか――。

否、今ここにあるものは、そんな胸が躍るような美しいものではない。

男が女を求めることも、女が男を求めることも、所詮は同じように醜いのだと。彼女はそう感じて自嘲気味に笑った。

そして次には、声も無く泣いた。


ぽたり、ぽたりと、エルフリーデの涙の雫が少年の頬へ落ちた。

彼女の自分勝手な感情にこの少年が汚れていくのだと、見下ろすエルフリーデにはそう思えた。

そうすると焦げ茶色の瞳が苦しげに揺れる。

この男はまだ、最も蔑むべき彼女の浅ましい感情を掻き回すのか。


静かに、彼女は寝台から下りた。

それ以上言葉をかけることもしなかったし、服を着せ直してやりもしなかった。

世話係が来るまでそのままの格好でいるのだろうと、失望混じりに思いながらも、まだその揺れる焦げ茶色の瞳を見ていた。


表情を消し、表面上はいつもの彼女に戻り、彼に背を向けた。


そして思った。これはやはり、恋なのだと。


何故ならそれは、彼女が軽蔑してきた通りの、身勝手で醜い感情なのだから。

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