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3―悪魔の囁き

次にその少年が目を覚ましたのは、やはり柔らかい寝台の上だった。

そこは、見覚えのある病室だ。相変わらず平和ぼけしたような陽の光が、窓から差し込んでいる。


前回と違うことと言えば、点滴の管に繋がれていることだ。

せっかく食事も水も拒んだというのに、悪魔から与えられるものを身体は取り込んでしまったことになる。

彼は憤りに震えた。無駄に回復している体力に気づき、自分自身さえ忌々しくなる。


怒りに任せて点滴の管を引きちぎると、針が抜けた腕から血が出て、痛みが走った。


「目が覚めたか」


青い瞳が突然間近に現れ、驚きに叫びそうになったのを彼はなんとか堪えた。

先程までは、確かにここには他人の気配など無かった。


「驚いているな。お前が変な気を起こせばすぐさまわかるように、この部屋には細工をしてある」


逃げる間もなく、彼の腕の傷を女の手が青白い光で治療する。

焦げ茶色の瞳を怒りに燃やし、彼は憎しみを込めて女を睨めつけた。


「やはり、綺麗な目をしているな」


悪魔の賛辞を素直に喜べる訳が無い。彼は更にきつく、女を睨めつけた。


「自己紹介が遅れたな。私の名は、エルフリーデ・ジルヴィア・アルテンブルク。ここ、アルテンブルク王国の国王だ。人間界では、魔王などと称されている」


握手のために差し出された白い手を取る気は、少年には毛頭無い。

彼は無視を決め込んでいるというのに、エルフリーデと名乗る魔王はその手をすぐには引っ込めない。


「お前も名乗れ」


宙に差し出されたままの白い手を睨めつけ、彼は沈黙を通す。

しばしの後、諦めたように手が下ろされた。


「名乗る気になったら名乗れ。別に魂を取ったりはしない」


悪魔は名前を通して魂を代償に契約を交わす、という話を少年は聞いたことがある。

しかし彼が名乗らないのはそんな理由からではない。

誇りのためだ。何一つ悪魔に差し出しはしないのだ。

そのために、口だって利くものか。


「私のことを悪魔とでも思っているのであろう。だが、我々は人間の思い描く悪魔という存在ではない。言ったところで、人間にとっては信じがたいのであろうがな」


何を言い出すかと思えば。悪魔でないなら何だというのだと、少年は馬鹿馬鹿しく思った。

彼はこの女から、只人ならざらぬ魔性の気配を今この瞬間も感じ取ることができるのだ。

何よりの証拠に、突然現れたり、物を消したり、傷を治療したりと、おかしな力を示しているではないか。


尚も少年が黙っていると、女は勝手に話し始めた。


「二千年ほど前まで、大陸に姿を見せることがあったという、精霊たちのことは知っているか」


少年は答えない。だが聞いたことがある。


「彼らは気まぐれに人間と交流を持ち、中には非常に親密な関係を築いた者もあったらしい。我々は人間と精霊との混血、人の身体と精霊の魔力を持って産まれた者たちの末裔だ」


そんなはずはない。

魔力を持って生まれてくる種族、それは悪魔であり人間の敵なのだということは、誰もが知る常識のはずだ。


「人間でも精霊でもない我々は魔族と名乗っているが、決して悪魔などと呼ばれるにふさわしい地獄の使者などではない」


この女は悪意を持って嘘を吹き込もうとしている。

そうでなければ、彼の国の人々は皆、忠誠を誓った皇帝に欺かれていることになる。

こんな戯言に耳を貸してはならない。


「考えてもみるがいい。地獄からの使いが、この地上で限りある生を受けて産声を上げるなどとは、筋の通らない話ではないか。悪魔と呼ばれる存在は、他にいるのだ」


この悪魔の声に言いくるめられてはならない。

多くの人々が悪魔に惨殺されてきたと教える教師、絶対悪である悪魔は正義の皇帝の敵であると説いた上官、悪魔の手に穢されぬようにと誇りを与えてくれた皇帝。

少年を取り巻くその世界が、間違いであったなどと言わせてたまるものか。


「そして、この地上に産まれてくる生命の中に、悪性のみ、あるいは善性のみを備えた種族などあると思うか?そんなことが自然に起こりうると、お前は納得できるか?」


惑わされるな。彼は念じ続ける。

そうでなければ、彼の中の大切なものが崩れ去ってしまうことを、彼が彼でいられなくなることを、どこかで理解しているのだ。


しかし、その意識の中で、凛と透き通った声が紡ぐ内容を理解し始めてしまっていることも、段々と誤魔化しきれなくなっていく。


「名乗っても安全だと理解したなら、名前を教えてくれないか。このままでは、呼ぶこともできない」


答える代わりに、彼はありったけの憎しみを込めて魔王を睨みつけ、吊るされた袋ごと点滴台を彼女めがけて引き倒した。

たおやかな手指が、いとも簡単にそれを受け止めてしまう。

その僅かな隙に、彼は寝台から飛び降り、白い腕の届かない距離に退避した。


机の上に、水差しはもうなかった。

代わりに、木製の器に水が満たされている。

こんなものでは自害する役には立たない。


そうだ、舌を噛めばいい。何故もっと早く、思いつかなかったのか。

この方法なら、道具は必要ない。

彼は勢いをつけて顎を開き、下顎の歯列に舌を乗せて、一息に噛み切ろうとした。


――が。その時、女の手から青い光が迸り、少年の顎が動かなくなった。

顎だけではない。全身が縛り上げられるような感覚があった。


ふいに見えない拘束を解かれ、足元から崩れ落ちる。

床にぶつかると思ったその直後、気づけば白い腕に優しく抱きとめられていた。


何度目になるか、また憎い女の青い瞳を見上げる格好を強いられ、彼の自尊心が傷つけられる。


「お前が舌を噛んだところで、私がそれを即座に治療する。そして、お前がこの部屋でおかしな動きをすれば、私はここへ来る。お前は死ねない」


少年の腹の底から怒りが湧き上がる。

この女が、彼をどこまでも、何もかも踏みにじる。

焦げ茶色の瞳がめらめらと音を発てそうなくらいに、憎しみに燃えていた。


「そんなに、私が憎いか」


憎い。憎い、憎い、憎くてたまらない。

この女は少年の大事にしてきたものを全て壊し、死ぬ自由も奪い取る。

この女のせいで、自分が自分でいられなくなる。


狂おしいほどの憎しみの中から、おぞましいほどに美しい女を睨めつける。

女の顔は無表情で、冷酷な悪魔そのものだ。


「死ぬ自由さえ奪い取り、お前の尊厳を蹂躙する私が、さぞかし憎かろうな」


この女には自覚がある。それでいて踏みにじっている。

これが悪でなくて何だというのだ。

彼の怒りと憎しみが他の全てを隠すように燃え上がる。


女はしばし逡巡する素振りを見せ、そしてまた柔らかな薄紅の唇を開いた。


「生きていれば、己が命より尊いものを見出すこともあろう。だがな。お前が守ろうとしているものは、真にその価値のあるものか?」


今度はいったい、どういう切り口で惑わそうというのであろうか。

愚かな問いだ。

武人の誇りだ。何にも代え難い誇りだ。それを守って何がおかしい。


「お前の目には誇りが宿っている。だが、その誇りの向く先は正しいものか?真に己が勝ち得たものか?他人に教え込まれた虚偽に惑わされ、利用されるために思い込まされたものではないのか?」


そう、これは悪魔の囁きだ。この女は紛れもない悪魔だ。

こうして揺さぶりをかけて、心に隙ができることを狙っているに違いない。


身体の感覚が戻り始めている。

白い腕を振りほどいて素早く女から離れ、壁に寄りかかり、精一杯拒絶の意思を込めて女を睨めつけた。


「敵の手に落ちたら自害するよう教えられ、お前自身の誇りを守るためだなどと何故鵜呑みにできる?情報漏洩を防ぐための露骨な口封じの策だと、思ってみたこともないのか?」


何故この悪魔は、彼の国で説かれたことを知っているのか。

そんなことより、惑わされてはならない。負けないように、そう念じてるのに。


どこまでも耳の奥へ入ってきそうな、透き通った声が痛い。

壊される。このままでは取り返しのつかないほどに、少年の世界が壊れてしまう。


「お前が信じる義とは何だ?誇りとは何だ?それは真実実態のあるものなのか、疑ってみたことがあるのか?」


義とは、誇りとは――皇帝に仕え、悪と戦うことではないのか。

正義のためにこの身を差し出すことではないのか。正義とは、悪とは――。


世界が掻き回される。

身体の中を暴き出されて断罪されるようだ。

見てはならないものを引き摺り出され、裁かれていく。


「言われるがままのことを鵜呑みにしたのだとすれば、お前が心から選びとった誇りではなく、全て故意に植え付けられた都合のいい思想にすぎない」


息を吸っても吸っても、溺れていくようだ。

おかしな震えが彼を襲い、発狂しそうだった。


やめてくれ。やめてくれ。もう、やめてくれ。


「お前は、生まれた国の与えられた環境で、他人から教えこまれた価値を馬鹿正直に信じたに過ぎない。何も選びとってなどいないし、理解して賛同したものですらない。それはお前自身が真に誇れるものなどではない」


うるさい。うるさい、うるさい、うるさい!


彼は頭を抱え込む。


女が見ている。

青い瞳が深く覗いてくるおぞましい感覚がある。


見られたくない。

嫌悪や恐怖だけではない、何故か不本意な羞恥も同時に込み上げる。


「お前の皇帝は、お前の引き取りを拒否した。人間界の作法に則って書状を送ったというのに」


女が一歩、少年に近づいてきた。

少年も一歩下がろうとして、背後の壁に追い詰められる。


青い瞳がすぐ目の前から見ている。

全てを見透かしてしまいそうな深い色に捕らわれる。

身体中が溶けそうに力を失っていく。

もう、立っているのがやっとだというのに、その青い二つの瞳に吸い上げられそうな幻想に襲われる。


「かわいそうに。お前にはもう帰る場所が無い。行く宛ても無い。居場所が無い。なのに死ぬことすらできない」


女は、少年を囲い込むように壁に手をついて見下ろす。

艶やかな長い黒髪が二人の間に影を垂らし、そこだけ夜の帳が下りたようにしっとりと暗い。

薄紅色のふっくらとした唇が、ほとんど息のかかりそうな距離で開き、少年を溶かす魔法の言葉を紡ぐ。


「私の傍にいるがいい」


その声は、言い聞かせるように優しく、するりと入ってきてしまう。


「お前は、綺麗な目をしている。きっと、自分自身を誇れるようになる」


するりするりと、何の反発も無く、耳の奥へ、そしてもっと奥へと、声が意識を侵食していく。


「だから、まだ死ぬな」


拒絶する気力が無い。

自分の中に強く保っていたものが、へなへなと萎んでいく。

そして悟った。自分は悪魔に屈したのだと。


何もかもを投げ出したくなった。彼は自分というものを見失った。


エルフリーデのしなやかな腕が、守るようにそっと少年を抱きしめた。

彼はもう、それを振りほどく気になれなかった。

柔らかな感触と、暖かな体温が伝わってくる。

それが甘く溶けるような快感となって全身を満たしていく。

抗えなかった。


心地良かった。

この女はとても良い匂いがする。

身体が芯から熱を持っていく。

もう自分が何者かもわからないし、考えたくもない。

ただ、この温もりに包まれて、全てを諦めてしまいたいと思った。


悪魔に屈したのだ。僅かに残った罪悪感が、チクリと胸の奥を内側から刺した。

けれど、すぐにそれさえも手放した。


甘い香りに、甘い肌に、埋もれて沈んでいきたいと、少年はそれだけを願った。


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