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2―噂と従者

「陛下が人間の少年にご執心だと、あらぬ噂が立っております」


朝食の折、口元に紅茶を運ぶたおやかな白い手を止め、魔族の女王は青い瞳で、その言葉を発した忠節の従者を見据えた。


彼は女王に影のように付き従う、忠臣中の忠臣である。

仕事としては単に女王の世話係を任されているのみなのだが、女王からの絶大な信頼と秘められた力の噂は、周囲を畏怖させるに充分であった。


理知的な切れ長の目に赤い瞳。

柔らかそうな淡い金髪は肩の下まで伸び、それを後ろでひとつに纏めている。

すらりと高い長身は引き締まっており、シンプルな執事服がよく似合う。


若く美しいために女王の愛人と噂されたこともあったが、ひたむきな誠実さが潔白を体現し、その噂もすぐに消え去った。


「噂が大きくならぬうちに、人間の身柄は人間の手に委ねるのが一番かと思いますが」


そんな彼の言う噂とは、勿論この従者が愛人であるという古い噂のことではない。

今まさに広がりかけた火種を消す、そのために彼は忠言するのである。


「あれはまだ弱っている。それに生きる術を知らない」


主君の言に唯々諾々と従うことが忠義ではない。

それを彼は、主君を想えばこそよくわかっている。


「傷を治し命を救ってやったのです。充分な温情と言えましょう。第一、あのような者を我が国で匿ってやる理由がございません。聞いた話では、口も利かず無礼な態度を取っているというではございませんか」


長年仕える従者でも、この女王の表情を読み取るには困難を極める。

静かに視線を投げかける美しい主君に向けて、彼はいつになく口数が多くなる。


「もしも、あの人間が陛下のご慈悲に感謝を示し、助けを乞うているのであったなら。わたくしとて、それを邪慳になさいませなどど申し上げられるほど、冷酷ではありません。ですが、謝意の示し方も知らぬような無礼者とのこと。大方、我々のことを悪と決めつけている、了見の狭い人間でございましょう」


この女王は愚かではない。忠臣の進言には耳を貸す。

それを彼は知っていればこそ、忌憚なく意見を述べる。


「いつ恩を仇で返そうとするやもしれません。最悪の場合、陛下のお命を狙って刃を向けるようなことも――」

「刃なら既に向けられている。二度だ」


その主君の言葉に、従者は衝撃のあまり息を呑んだ。


「かわいいものだ。あんな玩具で私に向かってくるなんて」


フッと、ほんの刹那笑いを漏らしてから、薄紅色の柔らかな唇が優雅に紅茶を啜った。


「それに、あれは興味深い。自分の傷には関心すら示さないくせに、自らの意思で私を傷つけておきながら、私の血が流れるのを見て苦痛でも感じているかのように顔を歪めるのだ。しかもおそらく、本人はそのことに気づいていない」


「陛下、いけません!」


常は穏やかな従者が、珍しく取り乱している。


「治せるからと傷ついていい訳ではないと、わたくしはいつも申し上げているではございませんか!もっとご自身を大切になさってくださいませ!」

「ああ、すまない、アルベルト」


名前を呼ばれた従者――アルベルトは、今にも叫びそうになりながら訴えた。


「根も葉もない噂だけでも、陛下の御名を貶めつつあるというのに…。陛下のお身体に傷をつけさえした者を庇ってやることなど、わたくしにはできかねます!」


深く青い瞳で、女王は忠節の臣下をなだめるように見やる。


「アルベルト、落ち着け。お前は私を信じられるか?」

「はい。勿論です、我が君」

「ならば案ずることはない。お前が気にしてくれているのは、私の身の安全と評判なのであろう?」

「その通りでございます」


「前者については、論ずるまでもない。私は人間たちが魔王と恐れおののく、魔族の王だ。たかが人間の子供一人に奪える命ではない」


毅然と、まっすぐに、青い瞳は揺らがない。


「後者については、気にするようなことではない。もとより私は暴君だ。望むままに、欲しいままに振る舞う。それでいて国を傾けはしない。為政者としての悪評ならばまだしも、私人としての評判など気に掛けるに値せぬ」


それでも、アルベルトの不安は拭えない。


「まだ、不安か?」


赤い瞳が揺れていることを、青い瞳は見逃さない。


「それでは…解釈によっては、我が国の方針として捕虜を保護しているのではなく、陛下の個人的な感情故にあの者を手元に置いていると、そうおっしゃっているようにも聞こえますが」

「仮にそうだとして、誰に文句をつけられる筋合いがある?」

「そのような発言をなさっては、かえってあの噂を大きくしかねません」

「噂など取るに足りぬものだ。それに、別に構わぬだろう?例え噂通り、私があれに()()()だったとしても」


冗談めかしてそう言う主君に、従者は思わず眉を顰める。


「お前は気に入らぬと?」

「陛下のお心の内にまで異議を申し立る権利のないことは、重々承知しておりますが…」

「気に入らぬようだな」

「主君の身体に傷をつけられて、良い気のする従者はおりますまい」

「そうか。お前の忠心はよく伝わった。考えておく」


考えておく――それは気休めにもならない答えだった。


アルベルトには、麗しく気高い主君が、得体の知れない人間などに心を奪われているなどということは、耐え難かった。

その者は既に、主君を傷つけてさえいるのである。

いや、それ以前からの感情の問題か。

気を失って女王の細腕に抱えられ、彼の汚らしい軍服が彼女のドレスを汚しているのを見た時から、そもそも気に食わなかった。


だが、その醜い苛立ちをそのまま口にできるほど、アルベルトは下品な性ではない。

濁った感情が渦巻くのを、痛む胃の中に押し込めるようにして、アルベルトは数舜の間、口を噤んでいた。


彼の主君はおおよそ察したのだろう。

慈しむ様に、青い瞳が向けられる。


「案ずるな。ただの冗談だ」


今のところは、などと小声で付け加える主君であっても、疑いたくはない。

ただ、拭えぬ暗雲のようなものがアルベルトの心を覆った。


「そんなことより、これをお前に」


突如話題を変えた女王の優美な白い手のひらに、小振りの赤い水晶があった。

その色は、アルベルトの瞳に酷似している。


「ご隠居のもとを訪ねてみるといい。急がないと言えば、比較的拒まれない」


完璧に教育された美しい所作で、アルベルトはそれを受け取る。


「もしや陛下は、これを探すために人間界へ?」

「ああ」


赤い瞳が喜びに満ちていく。

それは不安を払拭するようなものではなかったが、主君が彼を気にかけていると実感するには充分なものだった。


「ありがとうございます」


理知的な目を細めて破顔するアルベルトを、女王は満足げに眺めながら朝食に手を伸ばす。


デザートのプディングに、白くて愛らしい食用花が盛り付けられていた。

それを見て、これだけは厨房のパティシエの作ではなく、アルベルトお手製の一品であろうとわかるくらいには、この女王は彼を大切にしていた。

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