36―葡萄酒と語らい
その日は涼しいと言い切るにはまだ暖かな陽気だったが、木々の生い茂るこの森では太陽は覆い隠され、彼は仄暗い中で肌寒さを感じていた。
歩く度、踏みしめる木の葉が足元で鳴る。
緑、黄色、赤、茶色、それらがまだらに入り混じったものまで、実に鮮やかで多様なその色に、老いた彼は己の生涯に思いを馳せた。
閉ざされた鉄の門扉は、叩きさえすればひとりでに開いて客人を招き入れる。
少々不用心とも思えるこの屋敷の主の身を案じつつ、彼は中へと歩を進める。
西の森のお化け屋敷、という噂も絶えて、何十年が経っただろうか。
ここの主はそんな誹りに耐えられず、いつしか引きこもるようになってしまったのだと、彼は知っている。
そうしてこの屋敷と共に、彼女の存在は幾十年も忘れられていたのだ。
「おーい、おるかーい?」
心なしかしわがれた声で歌う様に呼びかける彼――水晶職人のローマン・ゲーゲンバウアーに答えるように、間もなく扉は内側から開かれた。
「いらっしゃいまし。珍しいお客様」
出迎えたのはこの屋敷の主、テレーゼ・パウラ・ブリューゲル伯爵夫人である。
今日も今日とて彼女の妖艶さは健在で、その姿だけで若い男には目の毒だ。
しかし今日の客人は幸い長い歳月を生きたために、彼女の色香に当てられて冷静さを失うようなことはない。
「上がってくださいな」
「おお、上がらせてもらうわい。年寄りの足じゃから、案内はゆっくり頼むぞい」
応接室へと案内される道すがら、この屋敷は昔と何一つ変わっていないなとローマンは思う。
調度品はどれも古いが一級品で、手すりや燭台に至るまで全てのものが歴史と格式の高さをうかがわせる。
現在の女王が即位してから、不正により私腹を肥やしていた名門貴族の家がいくつも取り潰しになったことを考えると、国内でこのような屋敷はあといくつ遺っているものかわからない。
「こちらへどうぞ」
案内されるままに応接室へ入り、彼はどっこいしょという掛け声と共にソファに腰を下ろした。
「お飲み物は何がよろしいですか?」
「酒じゃ」
「まあ、嬉しい!酒蔵にたくさんございますのよ」
「なら葡萄酒を頼むわい」
「はい、畏まりました」
使用人も雇わず一人暮らしをする若い女主人は、自ら客人をもてなす準備のために一度部屋を出て行った。
昼間から酒を所望してもおかしな顔ひとつしない彼女の態度に、彼はご機嫌になって皺の深い顔に笑みを浮かべた。
突然の訪問である上に要件も告げぬ客を、無条件で歓迎する彼女のことが、老いたこの客は些か心配ではあるのだが。
「こちらでよろしくて?」
「おお、こりゃ、ビンテージもんじゃないか!」
戻って来た彼女の手に握られていた瓶を見て、ますます彼は機嫌を良くした。
「チーズはお好きかしら?この葡萄酒によく合うと思って、お持ちしましたの」
「こりゃまた、高級品じゃな。いやはや、ばっちりじゃわい!」
ローマンには珍しく、にこりと皺を深めて喜ぶ。
「お前さんの親父さんもそうじゃったが、まったく気前がいい」
「あら、父をご存知ですの?」
「ああ、よう知っとったわい。あ奴の生前は、ここへも何度か来たことがあるぞい。お前さんが赤ん坊の時にもな」
「まあ!そうでしたの!よくまたいらしてくださいました」
和気藹々と、久しぶりに会う親戚同士のような空気が漂った。
「お前さんも一緒に飲まんか?」
「ええ、では少しだけ」
ローマンのグラスに葡萄酒を注ぐと、テレーゼは向かい側のソファに優雅に腰掛けて、自分のグラスにも同じだけ注いだ。
「今日はお前さんに頼み事があってな。正確に言うと、あの王様からの頼み事なんじゃがな?」
「まあ、あたくしでお役に立てることでしたら、喜んで」
そう言って艶やかな笑みを浮かべるテレーゼだが、直後に少しだけ表情を曇らせる。
「人前であの力を使うこと以外でしたら、ですけれど」
そうして、少し困ったようにハニーブロンドの眉尻を下げる姿は、何とも魅惑的である。
「いや、少なくともしばらくは、あれはやらんでええぞい。ちょいと、親父さんの書斎を見せてもらいたいんじゃ」
真っ白な口髭をほんのり葡萄酒で染めながら、ローマンが頼む。
「そんなことでしたら、お安い御用ですわ!」
ぱっと、テレーゼの表情が明るくなる。
「そんで、目当ての書物がそこにあったら、貸してほしいんじゃよ」
「ええ、勿論構いませんわ。あたくし、難しい本なんて滅多に開きませんもの、本たちも読んでもらえて喜びますわ」
「おお、そりゃあ、ありがたい」
ありがたい、と言いつつも、ローマンはこの若い女性が深刻なほどに心配になってくる。
警戒心というものが無さ過ぎるのだ。
「お前さん、ちょいと他人を信じすぎとりゃせんか?」
真っ白な眉の下から暗灰色の瞳を覗かせて、ローマンが真摯な視線を送る。
「そうなのでしょうか?こんな森の奥まで訪ねてきてくださる方々なんて、それだけでもあたくしには素敵な方々に思えますのに」
きょとん、と首を傾けながら不思議そうにする彼女は、その仕草だけでも悩まし気な身体の線が目立って、男の目を惹きつけるには充分だ。
ローマンは、ますます心配になってくる。
「余計なお世話かもしれんが、お前さんの親父さんと仲良くしておったよしみじゃ。ちょいと言わせてもらうが…」
豊かに伸びた白い眉の奥で、ローマンはゆっくりと一度瞬く。
「若い女が一人暮らしで、客をほいほい上げるもんじゃないぞい。わしがあと百歳、いや二百歳若かったら、変な気を起こしておったかもしれんのじゃぞ」
「変な気とは、どんな気ですの?」
すっとぼけているという気配もなく、彼女は本気でわかっていない様子で不思議そうに問いかけている。
「年頃の娘がそんなこともわからんとは…。こりゃあ、重症じゃわい」
はあ、と溜息を吐いて、ローマンは髪の無い頭を抱え込む。
「お前さんの細腕じゃ、男に押さえ込まれちゃあ抵抗しきれんじゃろうと言うとるのじゃ」
「まあ、それでしたら、陛下に素敵な助言を頂きましたのよ」
にこりと、テレーゼは蠱惑的な笑みを浮かべる。
「ほお、どんなじゃ?」
「蹴り上げて駄目なら、折ればいいんだそうですの」
自信満々に告げられた言葉に、ローマンはソファに座ったままで腰を抜かした。
「そ、そりゃあ、撃退法としちゃ、間違っとらんかもしれんがな。最終手段じゃ!」
被害者が出る前に止めねばならないと、ローマンは妙な使命感に駆られた。
「そういう状況にならんようにするのが、美しく生まれた女の責任じゃ。その、男を挑発するような服装くらい、なんとかならんのか?」
服装、と言われてテレーゼは、自分の身体へ一通り視線を流した。
これで彼女も気づくだろうとローマンは思ったのだが、甘かったようだ。
「これは母の形見ですのよ。あたくしには似合わないのかしら…」
その露出の多いぴったりと身体の線を際立たせるドレスが、似合いすぎていて困るのであるが。
それを説明しても、おそらく彼女には理解できないのだろう。
彼女は長く、森の屋敷に一人で閉じこもりすぎたのだ。
同じ年頃の女性というものをあまり見ていないから、自分が他人からどう見えているか知らないのである。
「ううむ。山奥に隠居しておるわしが言うのも変な話じゃがのう。お前さん、もうちょっと世間を知った方がええぞい?あの王様の作った横暴な法のおかげで、犯罪は減ってはおるが。お前さんみたいなのは、悪い奴の良いカモじゃ」
「まあ、どうすればよろしいのかしら」
「早う結婚でもして旦那に守ってもらうんじゃな。ほれ、あの軟弱そうな王子はどうじゃ?この間はいい感じだったじゃろう?」
ギュンターの剣の腕は王国軍で上位三位には入る。
見た目がどうあれ、決して軟弱ではない。
「シュレンドルフ公のことでしたら、ご婚約者がいらっしゃるそうですの…」
「なんじゃ、もう売り切れとったか。じゃあ、王様の従者はどうじゃ?身分は無いが、あれは結構いい男じゃぞ?身分差問題はあの暴君が何とでもしてくれるじゃろうから、この際気にせんでええわい」
「まあ、その方はどんなお方なんですの?」
こうして、葡萄酒の瓶が空きチーズが無くなるまで、二人は会話を楽しんだ。
すっかり満足したローマンは、本来の目的を忘れかけていたのだが、「おっと、忘れるとこじゃったわい」と、幸いにも思い出して書斎へ向かった。
「これじゃこれじゃ」
皺だらけの手で選び取った分厚い書物の表紙には、『呪術大全』という印字が古びて掠れかけていた。
「借りていくぞい」
「ええ、どうぞ」
快諾したテレーゼに再び玄関まで案内されたところで、ふと彼女は不安げな表情を浮かべた。
「そういえば、こんな森の奥まで徒歩では、お疲れになったのではありませんの?ごめんなさい、あたくし、ちっとも気がつかなくて。お帰りは馬車の手配でも――」
「こりゃ極秘なんじゃがな、わしは結構魔法が使えるんじゃ」
白く豊かな眉の下で茶目っ気たっぷりのウインクをして、ローマンは緑色の光を纏った。
風魔法である。
彼の周囲をひゅるひゅると風が包み込んだかと思えば、その身体はみるみる浮き上がって行った。
このまま飛んで行くようである。
「まーたのーうっ!」
しわがれがちな声が歌うように響くと同時に、遠ざかっていく彼のはためく青いローブの裾が捲れて、見えてはいけないものが見えてしまった。
テレーゼは、何も言わずに上品に手を振って見送った。
見えてはいけないものが見えてしまうのって、普通サービスシーンのはずなんですが…。
誰も喜ばないやつでごめんなさい!




