35―揺らがぬ忠誠
その午後、エルフリーデが王宮の執務室へ転移して帰ってくると、隣のアルベルトの控室から気配がした。
「また勉強を見てやっているのか」
アルベルトによるトシツネの教育は、かなり進んでいるようだ。
もう精霊言語で日常会話もできているし、剣の稽古など体力づくりも欠かしていないようだったし、礼儀作法や所作も様になってきている。
教育を命じたわけでもないのに、積極的にトシツネに良くしてやっているアルベルトのことを、やはり自分の従者は完璧だなどと、エルフリーデは密かに自慢に思っていた。
ふっと笑みを浮かべて、エルフリーデは隣室に転移する。
「ただいま」
アルベルトとトシツネに微笑みを向ける。
「陛下!お帰りなさいませ!」
アルベルトが涙ぐんで喜んでいる。
少し大袈裟ではないかと思う。
「おかえりなさい、陛下」
トシツネも嬉しそうに笑った。
それを見てエルフリーデは安堵した。
あの記憶を見たことで関係性に罅が入るのではないか、という懸念が少なからずあったのだ。
「昼食の時間になってもお戻りにならないので、わたくし心配致しました」
赤い瞳を潤ませるアルベルトに歩み寄り、安心させるようにポンと肩に手を置いてやる。
「私の帰ってくる場所は、お前のいるところだ。お前は安心して待っていればいい」
エルフリーデがそう言うと、アルベルトは感激して涙を一筋溢した。
エルフリーデは純白のハンカチを取り出し、その涙をそっと拭ってやる。
「トシツネ」
振り返れば、トシツネと真っすぐ目が合う。
その焦げ茶色の瞳を、真剣に見据えた。
「お前の忠誠は変わらぬか?」
そう問えば、
「はい」
と、迷いなく返事が返って来る。
「私がこの質問をした意味を、分かった上でか?」
「はい」
焦げ茶色の瞳は揺るぎない。
「そうか。ならばお前は私の臣下だ」
「はい、陛下」
答えるトシツネが幸福げに破顔する。
「私のいない間に、何か変わったことはなかったか?」
女王の問いに、アルベルトはハイデマリーから聞いた一件を思い出す。
「実は、キルヒナー宰相から興味深いお話を伺いまして。陛下のお耳にも入れておくべきかと」
頷いて、エルフリーデはトシツネの向かいのソファに腰を下ろした。
そうして、アルベルトは語り始めた。
「王宮内で、少女の幽霊が出るという噂があるそうです。その噂が出始めた時期が、エファが初めて攻撃を仕掛けてきた頃と、どうも一致するのです。そしてこの少女の姿、宰相ご自身も目撃されたとか。その時この噂をご存知なかった宰相は、幽霊だなどとは思いもよらず、幻覚だと思ったとおっしゃっていましたが」
「なるほど。それはエファか?」
アルベルトは頷く。
「そう考えるのが妥当のようです。宰相の目撃した少女の姿というのが、巻き毛の愛らしい華奢な少女、ということでしたので」
エルフリーデは顎に手をやって逡巡する。
「そうか。つまりエファは、王宮に頻繁に現れては、自らの目で偵察をしていたわけか。どこかから常に見ているわけではない、と」
アルベルトが同意するように頷く。
「そしてどうやら、無分別に危害を加えてくる相手ではないとも言えそうだ。噂になるほど目撃されていながら、被害報告は上がっていないのだからな」
エルフリーデは思考を続ける。
「更に言うならば、昨日の件からわかるように、エファにはそれほど残虐性はない。お前たちのうちの誰かをあの場で狙ってこられたら、おそらく私もただでは済まなかった。その上で人質でも取られたら、今こうしてここにはいない。しかしエファのやったことといえば――」
そこで言葉を切ったエルフリーデを見て、遠慮がちにアルベルトが口を開いた。
「陛下。昨日は、いったい何がどうなっていたのですか?我々には、青い光、つまり空間属性の魔力が満ちていたことしか、理解ができなかったのですが」
頷いて、エルフリーデは口を開く。
「エファは不意打ちで私の空間を開こうとした。その目的を悟るより早く、溢れてくる魔力量を察した私は、これを相殺することを考えた。結果、私の空間は一瞬開き、例の水晶を掻き出された。私はエファをなるべく遠くへ転移させようとして、意図せずエファの片腕を捥ぎ取った」
最後の言葉に、アルベルトとトシツネは一瞬怯えのような色を浮かべた。
「エファよりずっと残虐な女と、私が恐ろしくなったか?」
青い瞳が二人の臣下を交互に見据える。彼らは首を横に振る。
「お訊ねしてよろしいものか、わかりませんが…。陛下の空間、というのはいったい?」
エルフリーデが頷く。
「アルベルト、お前は私の記憶を見てはいないな?」
「はい」
従者は頷く。
「ならばその話からせねばならない」
エルフリーデは、一度白い瞼を閉じて、また開いた。
「私は父親殺しの罪人だ。そしてそれを、ずっと隠して来た」
もしギュンターと昨夜話していなかったら、トシツネはここで口を挟んだだろう。
あれは仕方のないことだ、と。
「詳しいことが知りたければ、あの記憶水晶に触れてみるといい」
アルベルトは、虚をつかれて言葉が出なくなっている。
「私には本来、小さな固有空間を維持しておくくらいの力はある。そこに私は死体を隠した。永遠に隠しておくつもりでな」
青い瞳が、赤い瞳をすっと見据えた。
「軽蔑するか?」
真っすぐに見返す赤い瞳は、澄んだ色をしている。
「いいえ」
「お前にも隠していたのにか?」
赤い瞳は揺らがない。
「全てを暴くことが信頼ではありませんし、ましてや忠誠はそのようなものではありません。わたくしは、目の前の陛下を信じてお仕えして参りました。そしてこれからも、そうあり続けたいと願っております」
「罪人と知って仕えるというのか?」
「その罪は、たった今からわたくしの罪です」
女王と従者の視線が、まっすぐに重なり合う。数舜の沈黙があった。
「アルベルト」
「はい、陛下」
視線を逸らさないままで、青い瞳は射るように従者を見つめ続ける。
「私は必要とあらば、またお前を欺くぞ。それでもか?」
真摯な瞳は澄んでいる。
「ええ、勿論です。その代わり、わたくしも必要とあらば、時には陛下に嘘や隠し事をせねばなりません」
女王は頷いた。
「それでいい」
そして、ふわりと微笑んだ。
「話を戻そう」
青い瞳が、ようやくトシツネのほうへ視線を遣った。
そのことに、トシツネは安堵の様なものを感じた。
「私は固有空間を有している。これを常に維持することによって、私の魔力は制限されてきたと言える。エファはおそらく、私がこの空間を捨てた状態での力を知りたかったのだろう。そのために、無理矢理それを開いて中身を取り出そうとしたのだと考えられる」
異空間を作り出す能力。
それは魔族より格上の精霊のみに可能と思われてきたことであり、それをこの女王が可能としていることに、アルベルトは驚きを隠せない。
「封印の依り代としてのエファの身体は、洞窟の中に存在する。そして、門は充分な魔力で塞がれていた。新たな身体を得て動いているエファは、本来のエファの一部にすぎないのだろう。だからこそ、あちらは私の正確な力を測ろうとしている」
二人の臣下は頷いた。
「正直に言っておく。あの場では虚勢を張ったが、例え私が固有空間を捨てても、エファがそのつもりだったなら、お前たち全員を庇い切ることはできなかった」
それはつまり、出方を間違えれば、あの場で誰かが命を落としていてもおかしくなかったということだ。
女王と少女がいかに緊迫した駆け引きをしていたかということを、彼らは今になって知った。
「幸か不幸か、私はエファの片腕を捥ぎ取った。これは私の制御不足で起こったことだがな。おかげで、しばらくはあちらから仕掛けて来ない可能性が高い。その代わりに、私がエファを怒らせたとすれば、これまでのような手ぬるい手法では来ないかもしれない」
二人の臣下は、ごくりと唾を呑み込んだ。
「トシツネ」
青い瞳から焦げ茶色の瞳へ真剣な視線が注がれる。
「お前はもう、無理をして私に好意を持つ必要はない」
その言葉をすぐには理解できず、トシツネの時が一瞬止まった。
「エファは心を読んでいるわけでも、常に監視しているわけでもないとはっきりした。こちらはなるべく冷静でいられるほうがいい。わざわざ面倒な感情に溺れる必要はない」
面倒な感情。
その言葉がトシツネの心の最も柔らかい部分に針を刺していることに、エルフリーデは気づかない。
「感情的になって戦況を見誤れば、容易に負ける。力で押し勝てない相手には、別の方法で勝たねばならない」
言葉を発することも頷くこともできず、トシツネは青い瞳をただ見つめる。
「エファは感情的な女だ。それは記憶水晶からも、実際の奴の発言からもわかる。そして、人間であるトシツネと私との関係に興味を抱いている。これはこちらが付け入る隙になりうる」
トシツネにも理解はできる。
「エファは何故か、トシツネが私を好いていると思い込んでいる。ならば上手く芝居を打てば、乗ってくる可能性は充分に見込める」
しかし、トシツネはもう既に、この主君に心奪われている。
トシツネにできるのは、芝居をしている芝居ということになるのだが――。
「トシツネ、お前は冷静でいろ。決して低俗な幻想に身を任せるな。その上でお前が協力してくれるなら、それはこちらの武器になる」
頷くしかなかった。
主君の言うことには筋が通っている。
「エファを挑発しておびき出す方法なら他にもある。それに昨日エファも言っていた通り、あちらはずっと待っているつもりはないらしい。いつかは焦れて勝手に出てくる。だが――」
白い瞼が下りる。
長い睫毛が伏せられて、白い頬に影を作る。
そして再び瞼が開かれると、青い瞳が真摯な視線を二人の臣下に送る。
「エファをあまり刺激して暴走でもされれば、冗談抜きに国も世界も滅ぶ。被害が出る前に、全てを整えてこちらから打って出る」
その瞳には、決意が宿っていた。
そして主君がこう言うからには、既に何か策があるのだろうと、長年付き従ってきた従者は感じ取った。
「アルベルト」
凛と気高い声が、従者の名を呼ぶ。
「今朝の書置きで知らせた時刻から、昨日し損ねた分の記憶水晶の検めを行う。皆を十五分早めに集めて、今の話を通しておいてくれ」
「承知致しました」
淡い金髪の頭を作法通りに下げて、忠節の従者が礼をする。
「私は宰相と話がある。会議室で会おう」
そう言い遺して、女王はその場から転移して消えた。
この世界に生きる者にとって、世界の存亡と秤にかけられるものなどあるだろうか。
けれど若いトシツネには、どうしてももう一つ、それと同じくらいに気になってしまうことがあった。
卑しい好意。面倒な感情。低俗な幻想。
エルフリーデの発した言葉が、トシツネの最も繊細な気持ちを抉っていく。
実の父に責め苦を強いられ蹂躙されそうになり、怯えながら必死に抵抗したあの痛ましい少女には、恋慕の情とはそんな醜いものとして刻まれたのだろうか。
彼の中にある焦がれるような想いも、彼女の目にはそんな下賤なものにしか見えないのだろうか。
恋とは美しいものだと思ってきたトシツネには、それはあまりに残酷なことだった。
土日は三回投稿します。




